3-2-13 辺境最深部に向って退却せよ

 横隔膜の引き攣りのような音の繰り返しが骨伝導のために、直接、頭の中に響く。

 くっ、ひっ、くくっ、ひひっ――。

〈もう切るわね、これ……〉

 恐らくはかなり前から消音にしていたはずの東子からの無線通信。

〈まって。一つ――伝えて、彼らに、彼に。釜石徹は絶対に死なせるな〉

〈はい、ボス〉

 ボスという呼び方を訂正させる気力が四恩にはなかった。そのまま聞き流す。自分の触れてしまった闇の深さが、彼女の意識の処理能力を殆ど奪い取っていた。

 三縁が傍受して彼女たちに聞かせたのは、飯能市の山中から市街へと向かう高級車の中での会話だった。話しているのは、武野無方と釜石徹。〈活躍の園〉でどんな情報機関のどんな偽情報でもカバーできないほどに巨大なテロルが起きると、武野は早々に復権したようだ。他方で、釜石徹はその反作用で完全に失脚した。彼はあまりにも多くを知りすぎていた。奥崎健一と同様に、〈137〉が急いで消さなくてはならない、汚れた取引の証拠そのものになった。彼らを消しさえすれば、〈137〉の、いや――岩井悦郎の勝利だ。後は全国各地で続くテロルを、鳥栖二郎と奥崎謙一に代わって、操作するだけ。それだけで、彼と〈137〉の雇用を維持し続けることができる。そしてそれはまた、鳥栖二郎の勝利でもある。〈地下物流〉組織から自由になるために、より巨大な何かと契約しているはずの、鳥栖二郎の勝利。

 奥崎謙一に偽りの自由を約束した大人たちの、結乃と水青と小林小町を死に追いやった大人たちの、東堂東子と石嶺磐音に「政治的に敗北した」身体を震えながら抱かせた大人たちの――、戦争を自国内で継続してでも富を吸い続けようとする大人たちの――、勝利。

「ふざけんなよ……」

〈四恩ちゃん?〉

 フェンスの向こう、〈活躍の園〉の建物の数々が見えていた。それは例外なく白亜の円柱であるはずだったが、あの大人たちが勝利の美酒を飲み干す光景を想像したことで惹起された感情が紅に塗りつぶしていた。

〈四恩ちゃん? もしもし〉

 爽やかな風のような三縁の声が、彼女の視界から怒りのフィルターを取り除いた。

〈あそこに、行くの?〉

「ん――」

〈その……、君は何をしてもいいんだよ〉

「別に――大したことない。簡単。わたし、強い」

〈あ、あ、そう、そうだよね〉

 三縁は、まだ何か言い足りないことがありそうだった。とはいえ、四恩は今は一つの戦争機械になりたかったので、続きは言わせないことにした。三縁の悪癖――四宮四恩に気を遣い過ぎる、四宮四恩に忖度する。

「実に簡単ですわ。施設から逃げようとする人々の濁流に逆らって中に侵入し、警備の兵士の皆さんを無力化しつつ、奥崎健一を殺そうとしている〈137〉の子たちから、わたくしたちの殺害も含めてあらゆる手段で抵抗するに違いない奥崎健一を守りながら捕まえるだけですもの」

 四恩とフェンスの間に、磐音が立った。豊かな髪を振り回しながら、ターン。四恩と目を合わせる。唇の隙間、白い歯が見えている。牙も、また。ははっ、と四恩も吹き出す。

「そう、簡単――。三縁――」

〈はい、ボス〉

「冷却液の排水は――?」

〈まだされてないよ〉

「東子」

〈はい、ボス!〉

 彼女はボスという響きを気に入り始めていることを自覚した。

「武野無方に、さらに釘を――。釜石徹の身柄について、『わたしたち』抜きで決め、ない、こと」

〈《私たち抜きに私たちのことを決めるなNothing About Us Without Us》〉

「適切な引用だね、カムパネルラ――」

 いいいっ、いいいっ、いいいいっ、いいっ――。

〈《わたしたち》は釜石徹と三島三縁の安全の交換を要求するつもりだと付け加えるべきじゃない? 向こうもそのつもりだろうし。だからまだ排水してないんでしょ〉

「そう、し、よ――」

 黒煙を上げていた塔の一つの、全ての窓が火を吐いた。炎は続けて、壁を紙のように裂き、浮き上げた。その威力は実に、十分に離れた場所の遊興施設の立体駐車場にいる彼女にまで、熱波を届けた。磐音の瞳が熱波を伝導して光り輝く。四恩の瞳もそうであったかも知れない。どのような葛藤があったにせよ、自分は――〈137〉の最上階の角部屋に住んでいた。あの殺人集団の優等生だった。そしてこの力を初めて、本当に、誰かを救うために行使できるかも知れない。

 ならば、こんなに簡単な話があるだろうか?

 フェンスに指を掛ける。そのまま、持ち上げる。剥ぎ取る。出口を作る。

「対テロ戦争の要諦は――!」

――殲滅あるのみ!

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