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「これを聞いたら、君は戻れなくなる」と、あの男はチェシャ猫の笑みを浮かべたまま、言った。釜石は思わず身構えた。何処へ行くことになり、何処へ戻ることができなくなるのか。聞くまでもなかった。さらに続けて、彼はこう言ったのだから。

「しかし君は、君の研究成果は、〈身体拡張技術〉の名を独占することができる」

「またとない誘いだった。もしも自分の研究テーマが〈身体拡張技術〉の名を独占し、予算を確保できるとしたら、これ以上に素晴らしいことはない。しかし、そんなことはどう考えても不可能だった。完全な与太話だと思った。既に欧米や中国では〈身体拡張技術〉の主流は人間身体の機械化やそれに対する機械の付加ということになっていた。日本でも、介護労働者の不足や農業労働者の不足を補うために積極的に外骨格型のアシストスーツが導入されていたからね。研究の蓄積も十分にあった」

「だが貴方は勝利した」

 言いながら、武野がルームミラーを見た。それだけで、サクラは運転席の窓を開けた。

「そう、完全に、完璧に勝利した。鳥栖博士のおかげでね。昔、大規模な感染症の流行があっただろう?」

「ええ、ちょうど私が小学生の時ですね。一度も友人の顔を見ずに小学校を卒業しました」

「存在しない友人の顔を見ることはできない」とサクラ。

「そうではなくて、これは感染症の流行が長期化して、小学生の時はマスクをし続けていたということの婉曲な表現ですね」と武野。

 国語の先生になれ、とサクラが毒づきながら毒煙を車外へと吐き出す。

「釜石くん、今の私の仕事を知っているかね?」

「いや、知らないな……」

「私は君の仕事を知っているのに、君は私の仕事を知らないのかね。悲しいな」

 鳥栖は満面の笑みのまま、そう言った。いつの間にか、彼の研究室にあるソファに腰掛けており、釜石の方でもコーヒーの用意を始めていた。あの時、もう彼は釜石を操作していたのだろう。

「マイナンバーカードは持っているかね?」

「ああ、妻がマイナポイントが欲しいからって……」

「糞みたいなシステムだろう? 実際、カス以下のシステムだ。この国の官僚というのは本当にレベルが低い。どうしようもないクズばかりだ。博士号はともかく、修士号すら持っていないような、低学歴ばかりだ。デジタルトランスフォーメーションなどと言っている役人は大体が経済学士様でね。VBAすら触れたことがないって有様だ。だから連中、大手広告代理店に言い値で仕事を発注している」

「そうかね。日夜、頑張って働いているのではないかな。ぼくのところの卒業生にも、何人か霞ヶ関に行った子がいるよ。みんな良い子だった。君の言う通り修士号すら持っていないが、ああいう子たちが国の中枢にいるなら、ぼくは安心できるよ」

「もう我々の後輩の大半は霞ヶ関ではなくて、外資系コンサルティングファームに行くらしいね」

「辛辣だな……。今の若い子は我々の若い時よりよほど勉強しているし、行政官僚を一部大学が独占する状況が解体されるのは多様性って意味でも良いことなんじゃあないか」

「私のせいで話が脇道にそれてしまったね。失礼。そう、君の言う通り、多様性は善だ。そのおかげで私も仕事を受注できた」

「あ、そう。それで、どういう?」

 礼も言わずに、鳥栖は釜石の手からコーヒカップを取る。彼は白い歯と歯の間にコーヒーを流し込む。大きな音を立てて、サイドテーブルに空になったカップを置いた。

「日本版全情報認知システムの構築さ。マイナンバーカードはもう終わり。テロルとパンデミックのトラウマが国民に残っている間に、政府は『防衛省データ・マイニング計画』を開始する。私が陣頭指揮を取る」

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