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心臓が血液を送り出す運動と同期して、痛みが去来する。幾度も、幾度も。その狭間に、チェシャ猫の顔が浮かんでくる。歯を剥き出しにして、口を裂かれた者のように笑っている。
「君は鳥栖くんが『集団』であるということは理解しているのかね?」
武野に差し出されたハンカチを中指と折られた人差し指に巻きつける。
「勿論、しています。実は、警察は既に何度も彼を現行犯で逮捕しています。報道がないだけでね。最後には必ず釈放されてしまうから。何故かと言うと――」
「何処からともなく2人目が現れて、今勾留している人間の身元が全く不明になるのだろう?」
「そうです。同じ人間が2人いるということはありえない。あってはならない。目の前の人間は鳥栖二郎ではないということになる。だから釈放するしかない。存在しない人間はどのみち起訴もされない」
「私が彼の目的を話せば、君は今度こそ彼を――彼らを逮捕できる。そうだね?」
「そうですね。〈鳥栖二郎〉の内の少なくとも、今この混乱を引き起こしている幾つかの個体については」
内因性のオピオイドが生成されているはずなのに、痛覚からの信号はまだ釜石を苦しめていた。それは必ずしも、痛みという感覚のためではなく、むしろ、それによって喚起される、鳥栖二郎のチェシャ猫のような笑みの繰り返しのためだった。
「〈地下物流〉組織が初め、中東と日本を往来する棺桶を暴いた兵士によって『偶発的』に始まったように、〈鳥栖二郎〉もまた『偶発的』に始まった。私が初めて彼と会った時は、彼はまだ確かにただ1人しかいない、ただの人間だった。確か、ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラの原書を読む小さなサークルが本郷にあって、そこで会ったのだと思う。彼は情報工学の研究者だった。読書会の後で彼といつも話したのは、第3世代システム理論――ではなくて、日本の科学技術振興予算のあまりの貧弱さについてだった。彼はそれを真剣に憂いていた。やがて彼は研究の傍ら、起業した。研究を続けるためにね。しかしそれがいつからか本業になった。彼の会社は政府からの仕事を受注するようになった」
話しながら、思い出していく。まだ唯一無二の鳥栖二郎であった頃の鳥栖二郎を。むしろ彼は殆ど笑うことのない、暗いが生真面目な青年ではなかったか。そして釜石のことを「ノンポリ」と批判していたのではなかったか。サイゼリヤ本郷3丁目店で安いワインを飲みながら――。
「釜石くん、息災かね?」
だからチェシャ猫の笑みを初めて見た日のことは、はっきりと覚えていた。卒業論文が書けないと涙目になっていた学部生の男の子の肩越しに、それを、見た。アポイントメントも無しに、彼は釜石の研究室を訪れた。
鳥栖は研究と経営の両立に忙殺され、釜石は釜石で地方公立大学の准教授になったことで本郷のサークルに通わなくなり、彼らは暫く会っていなかった。釜石は彼の笑みの根拠を知りたくなった。
「学部生の子との面談を中止してから私が聞いたのは、鳥栖博士の悪ふざけの一部始終だった。しかし、卒論指導を続けるべきだったのだろうね……アポも取らないような男は追い返して……。まだ若かった私は、教育などというのは研究の時間を奪うだけの単なる無駄と考えていたから……」
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