3-2-12-5

 武野は釜石を試しているのではなかった。そんな必要はなかった。だから釜石は何も言わなかった。何も言わせないために、彼はそう言ったのだ。

「〈137〉は証人を皆殺しにすることで幕引きを図るつもりです。特に奥崎謙一、それから先生。鳥栖二郎との取引は最初からなかったことになる。〈地下金庫〉の黄金はしっかり回収しつつ、ね」

「しかし、この事態の収拾はどうするつもりなのだろう?」

「混乱が彼らの望みなのです。混乱が彼らの次の目的のための手段になる。混乱が彼らの需要を作り出す」

 中東に生成された闘争領域バーストゾーンが近々誕生するイスラーム・ユニオンによって平定されれば、〈137〉は需要を失うことになる。しかしもしも日本列島そのものが殺戮の桃源郷バーストゾーンになるとすれば。

「しかし、わからないのは鳥栖二郎だ。この国の混乱を手段にして、彼はどんな目的を達成しようとしているのか。先生に聞きたいのは、そのことです。彼の目的は何ですか?」

「混乱そのものが目的だとしたら、どうだろう?」

 言って、脇腹を刺突されるような感覚を覚える。あるいは後頭部の髪の毛が燃え上がっていくような。

 ルームミラー越しに、武野がサクラと呼んでいた女が彼を睨んでいる。一体、彼女と武野はどういう関係なのだろうか。賃労働における指揮命令の関係というだけでは、彼女の強い共感性を説明するには不十分であるように彼は思った。

「彼の、目的は、何ですか? わかりますか、私の質問が」

「私が全ての黒幕だとでも?」

「まさか……。私はそれほど単純な世界観を採用していません。それに私の貧しい捜査の経験から言って、事件というのは、常に、偶発的なものです」

「『常に』」

「はい。常に。そのことを私は忘れていたんです。一連のテロの全てを指揮する主体を、不当に前提してしまっていた。そのことに気づけたのは四宮さんのおかげです。彼女は『事件』ではなく『奥崎謙一』を追っていた」

「近代において人間は基本的に自由だからね」

 あっあっあっあっあっ――。

 表情の廃止も、ナナフシのように伸びた背筋もそのままに、武野が声をあげていた。

 あっあっあっあっあっ――。

 半ば助けを求めるようにして、再びルームミラー越しにサクラを見た。彼女は今では彼を睨むのではく、運転手に徹していた。ただよく見ると、僅かに顔を顰めてもいた。マネキンに魂が吹き込まれる瞬間を、彼は見たのだった。

「先生、真顔で冗談を言わないでくださいよ」と真顔の武野。

「あ、ああ……」

「貴方は混乱を手段に、〈高度身体拡張者〉同士の性交、妊娠、出産という目的を達成しようとした」

「製薬会社の新薬開発手法と同じだよ。神はサイコロを振らないが、〈還相〉はサイコロを振る。幾つかの人工交配法が失敗した後では、もう我々に残されているのは試行回数を増やすことだけだった」

「それが性暴力そのものを意味するとしても?」

 意味するとしても――だ! 当然だ。武野という男を買い被り過ぎていたかも知れないと釜石は思った。もしも彼が、そんな市民道徳的な問いかけで、この科学者に揺さぶりをかけようとしているのなら。

「メルロ・ポンティも『ヒューマニズムとテロル』で書いていただろう? 『わたしたちは無垢と暴力のあいだで選択しなければならないのではない。異なった種類の暴力のあいだで選択しなければならないのである』」

 サクラが窓も開けずに煙草を吸い始めた。猛烈な煙に釜石は咳き込む。「換気してくれ」と彼は言ったが、彼女はそのまま吸い続けた。

「だから貴方は鳥栖二郎に協力した。奥崎について教えた。自由を得て四宮さんと再会するという目的のために、この国を戦場にするという手段を採ろうとしている少年のことを教えた」

「換気してくれ。臭くてたまらない。それに、息苦しい」

「サクラさん、換気しますか?」と武野。

「少し待て。優生学者の腐敗臭をタールで塗り潰す」とサクラ。

「わかりました。というわけで先生、申し訳ありませんが、まだ換気はしません。それで、他の連中にしても事情は同じのはずだ。粛軍派は反粛軍派を葬るという目的のために、反粛軍派は粛軍派を葬るという目的のために、この列島を戦闘地域にするという手段を使うことにした。だが、やはりわからないのは、鳥栖二郎だ」

「頼むから換気してくれないか」

「それで私が考えていたのは〈地下物流〉組織と鳥栖二郎の関係なんです、先生。わかりましたか、先生。私がここまで話してきた『事件』のプレイヤーに、〈地下物流〉組織の名前が出なかったこと、気づきましたか、先生。全てのプレイヤーに資源を提供していた、あの〈地下物流〉組織の名前を、私は出さなかった。先生、ちゃんと聞いていましたか」

 武野が釜石の方へと席を詰めてくる。彼は自然、窓の方へ追いやられる。彼は自分の息で白くなる窓ガラスの向こうに、キャンプ場を見た。家族連れが、若者の集団が、火や食べ物を囲んでいる。その嬌声、その話し声を聞きたいと彼は思う。

「先生」

 思っている間に、彼は武野に指を取られている。左の人差し指。指だけではない。手の甲に、武野の手のひらを感じている。

 ぼきっ。

 梃子の原理が、この官僚をして、成人男性の指の骨を折ることを可能にしていた。

 ぎぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいぃぃぃぃぃぃ――。

 痛覚からの猛烈な刺激が怒りの感情、疑問の意識を吹き飛ばす。荒い呼吸が窓ガラスを白くしていく。

「先生、サクラさんも言っていたでしょう。我々には時間がないんだ。貴方は鳥栖二郎と、もう1人の博士号取得者を加えた〈三博士〉で防衛省、厚生労働省、文部科学省の省庁を越えた孤児と障害児の回収システムを作り上げた。しかし官僚である私が断言しましょう。そんなことは、最後の審判まで不可能なはずだ。私だったら、許しはしない。貴方達は政治工作のために膨大な資金を必要としたはずだ。そしてその資金は――〈地下物流〉組織から調達していた。そうですね? 先生」

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