3-2-12-2

「チェレンコフ光」

「彼女は光源になることはできません。自分に照射された光を操作するだけです」

 左のポケットに放射線測定器を戻す。右ではなく。そう思った時にはもう彼女の手には小型拳銃が握られている。弾倉を持たない、上下二連の連装銃。女性の護身用、または暗殺にうってつけの銃。

「彼女は光源になることはできません」と、少女は繰り返した。

「そうだったね」

 釜石の抵抗を期待するかのような緩慢さで、少女は彼の顔に銃口を向けた。実際、その目は細められていたのだ。ただ、それが笑みなのか、あるいは流れ落ちる涙を制圧するための彼女なりの努力なのかは、釜石にはわからなかった。

 彼がこの家を購入した時、つまり〈137〉の研究部門に最高責任者として着任した時から、基地の外では常に3人の護衛が付くことになっていた。

 全国で同時的に〈身体拡張者〉の帰還兵によるテロが始まると――そして四宮四恩が彼の導きで基地を出ると――、護衛の数は時間の経過とともに増えていった。

 今日は常時8人もいて、その1人が今まさに、彼に銃を向けていた。

 他の7人が駆けつけてこないことから推測するに、これは〈137〉そのものの意志なのだろう。

「私、実はまだ人って殺したことなくて……」

 いずれ自分の技術が造り出したものによって殺されることを彼は予想していたが、ロマンチシズムが過ぎたようだった。彼は拳銃で、それもリンカーンの暗殺にも使用されたような、クラシカルな拳銃で殺害されることになるのだ。

「先輩たちは先生が読書中に殺しちゃったらいいよって言ったんですけど……。でもなんかそれって、私の美学に反するというか……」

「『美学』」

「はい」

「とても重要だと思うよ」

「ありがとうございます」

 意識の速度と意識の対象の速度との差異が断絶そのものとして、彼の主観において現象した。今や全てが緩慢に過ぎた。彼女の指がトリガーガードからトリガーへ移行する時間など、殆ど無限に近い。彼は静かに思索をするのに十分な時間を、人生で初めて得たと感じた。時間はある。まず何を考えるべきか考えることにしようと考えた。だが、何も思いつかなかった。未練というものがないために。それは――妻のおかげだった。そう思った瞬間、彼は生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答えを得た。

 神は存在する。

 何故なら、既に彼は机の上の写真立てを伏せていて、彼の横で微笑む妻の顔を自分の飛び出した脳漿と血液とで汚さずに済むようにしていたのだから。

「神は存在する……」

 初めての殺人に緊張する少女へ福音を告げようと、彼はできる限りの穏やかな声で言った。

 彼女は口を僅かに開けて、はぁ、と小さく息を吐いた。

 吐息が室内の空気と混ざり合うより早く、彼女の背後、木製の扉を白く、細長い物が突き破った。

 分厚いオーク材を貫いてなお、その力は減衰せず、さらに進んでついに少女の背中へと侵入し、彼女の胸に穴を開けた。

 血飛沫の中、彼女が拳銃を握る手と拳銃を貫いてなお進む白亜の槍が静止したのは、ちょうど、椅子に腰掛けたままの釜石の鼻先だった。

 ばたっ――。

 槍が扉の向こうへと戻ると、少女の身体からも出ていった。支えを失った彼女の身体が前のめりに倒れた。

 その後で、男が1人、部屋に入ってきた。彼はわざわざ少女の身体を跨ぎ、釜石の傍にまで来た。

 彼の背の高さは日本人離れしていた。撫肩もあって、釜石はナナフシという棒の組み合わせのような外観の昆虫を想起した。

 ところで、彼は土足だった。それから彼自身がまだ背広の上にコートを着ているのにも関わらず、もう1枚、レザーコートを腕にかけている。

 男は釜石を見下ろしながら言った。

「『すべての命題は等価値である。世界の意義は世界の外になければならない』。『世界の中に価値は存在しない。それゆえ倫理学の命題も存在しえない。命題はより高い次元をまっ たく表現できない』」

「神は存在しないと?」

「少なくともこの世界の――」

 ばっちこおおおおおおんんんんん――。

 小気味良い音が彼の言葉を遮った。

「おい、馬鹿」

 いつの間にかナナフシの背後にいた女が彼の頭を平手で叩いた音だった。女もまた、彼の頭頂に手を振り下ろせるだけの身長があった。

 叩かれ慣れているのか、あるいは顔面の筋肉に何か不自由があるのか、ナナフシは無の表情のまま振り返った。

「サクラさん」と、男。

「時間がないと言っただろう、馬鹿」と、女。

 三白眼の彼女の顔にも、釜石は〈高度身体拡張者〉の少女達の顔立ちに覚える、あの感覚を、確かに覚えた。不気味の谷を降りていく感覚――。

「君はバカという名前……ああ……名字、なのかな……?」

「申し遅れました。私の名前は武野無方です。方角が無いと書いて、無方」

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