3-2-12-1 〈三博士〉

 飯能市は吾野渓谷に釜石徹の自宅はあった。その前は、彼は和光市に住んでいた。そこにある独立行政法人で研究員をしていたのだった。給料は破格で、自由もあり、何より生物学以外の研究者と話し合える知的環境に恵まれた職場だったが、〈137〉が彼に許した裁量は最良のものだった。移籍を決めると同時に、飯能市を歩き回って調べ、家を購入した。

 環境は良かった。川のせせらぎが聞こえたし、特に、風向きによっては遠くにあるバーベキュー場から家族連れの声が聴こえてきた。思索には孤独が必要だったが、彼は必ずしも「強い」人間ではなかったので、その声は是非とも必要なものだった。むしろ日に日に弱くなっていく自分を、自覚しつつあった。妻を亡くしてからは、特に。まだ若く、予算を引っ張ってくる力どころか、任期尽きの雇用しか得られない研究者だった彼を保育士の給料で支えた彼女――。

 机の上に置かれた写真立てに目をやる。白衣の彼と、エプロン姿の彼女。彼と彼女――釜石はこの写真が本当に自分の過去を切り取ったものなのか、自信を失いつつあった。

 彼は必ずしも「強い」人間ではなかった。

 とん、とん。

 ノックの音。写真立てを机に伏せた。咄嗟の行動だった。動機というのは行為の後で構成されるものだからね――チェシャ猫のように笑う〈博士〉の言葉を思い出す。妻よりも、彼の顔を思い出すことが増えてきていた。釜石は肉体の経年劣化を自覚した。

 どうぞ――と彼は応じた。

「失礼致します」

 木製の扉を開けて顔を見せたのは身震いするほど美しい顔立ちの少女だった。普通、人間の顔は完全に左右対称ではありえない。その種の対称性は、ただ、自然への介入によってのみ可能となる。そしてその介入は介入の意図を顔に痕跡として残し、見る者を不気味の谷へ引き摺り込む。

 深々とお辞儀する彼女に合わせて、彼も会釈してしまう。

「日本最高の頭脳のお仕事をお邪魔して申し訳ございません」

「日本最高の頭脳?」

 乾いた笑いを漏らす。少女が目を丸くして見ている。彼女は今年で何歳だろうか。ひょっとすると、まだ義務教育期間中ということもありえる。

「誰かがそう言えと?」

 棘のある言い方になっていなかったか、彼は少ししてから心配した。少女は気分を害した風もない。彼は安堵し、湯飲み茶碗を取って、彼女のためにこそ時間を稼ぐ。

「いえ……、司令からそのように聞きました。決して皮肉などではありません」

「しかし岩井くんは皮肉のつもりだったと思うよ。僕は研究において何一つブレークスルーを達成したわけでもないし」

「しかし……お言葉ですが……しかし……いま私がこのように2本の足で立って、歩き、お部屋の点検ができるのは博士のおかげです」

「しかし、サイコロを振る神様のおかげなんだ、それは」

 小首を傾げて、微笑しつつ、彼女は釜石を見た。実際のところ、彼女は岩井悦朗の言葉の意図を正確に理解しているのかも知れなかった。

 部屋に入った少女は収納という収納の中を確認し、窓から外を確認し、最後に〈137〉指定制服の右のポケットから放射線測定器を取り出して部屋の真ん中に立った。彼女も、測定器も沈黙していた。

「それは?」

「先輩……いえ……脱走したID19171107が放射線を用いて博士の暗殺を試みる可能性があるということで、今回から博士のお部屋を点検する時は目視確認に合わせて放射線測定器も使用することになりました」

「彼女はチェレンコフ光も操作できるようになったの?」

 それは人類にとっての福音だ。もしも地球環境が文明によって完全に破壊される前にブレークスルーがなければ――そしてそれは時間的制約のためにないだろう――、人類は核融合炉を利用した宇宙船で宇宙を旅することになるのだから。自然、釜石の声は大きくなった。

「チェレン……申し訳ございません……チェレンコとはどのようなものですか?」

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