3-2-11-7

〈君の名前は?〉

 奥崎謙一が繰り返す。三島三縁が〈監視カメラで君のことを見ているみたいだね〉と呟く。通信が傍受されているわけではないらしい。

 酩酊感を覚える。吐き気と、自他境界が曖昧になっていく感覚と。

 自分の記憶力が高度身体拡張者であることに由来するのか、カムパネルラにはわからなかった。しかし、全てのエネルギーを吸収し、保存する能力と相補的な能力であることだけはわかった。わかってきた。現在と過去を区別するのが記憶の劣化ならば、劣化しない記憶とは現在と過去の区別を廃棄するものであり、そしてそれは過去から学び、未来を企て、今を生きる主体の構成を阻害するものであるからだ。

 つまり……。

 つまり……?

 彼女は〈バーストゾーン〉の部分的移行によって、精神の平衡を失いかけている自分を理解する。

 高度身体拡張者の子どもたちは、いずれも、〈バーストゾーン〉の部分的移行が始まるといずれも強度の躁状態になる。自分が猛烈な速度で変化すること、自分というものが猛烈な速度で失われていくことの恐怖を処理するために――。

 四宮四恩はどうだろう……?

 もしかすると、物凄く饒舌になったりするかも知れない。そんな四宮四恩もきっと、本当に、時間を止めて永遠に保存したくなるほど素晴らしいだろう。

 民間軍事会社の社員のような、些かラフな格好をした兵士たちの屍を踏み越えて、彼女は目的地に辿り着く。

 あるいは自分の過去に、辿り着く。

〈君の名前は? 名前がないのかい? それもありえるかも知れないね。僕たちは名前のない子どもだから〉

 それはもう、彼女の完璧な記憶力のために現在そのものと化す。

〈活躍の園〉で身体拡張の施術を受ける子どもたちは必ず、この光景を見ることになる。

 金網の向こう側、巨大な吹き抜けの底、殆ど半裸に近い人々の群れ。

 月に7万円の「ベーシックインカム」と引き換えに、国民は社会保障制度の全廃に賛同したが、その論理的帰結がこれだった。

 日本版「ベーシックインカム」は当時の首相が言う通り物価スライド制を採用してはいたが、貨幣価値が膨大な債務によって毀損される速度は物価スライドの速度を遥かに上回っていた。

 そうして貧困層が街に溢れ出し、観光立国化が危ぶまれるに及んで、政府は貧困層向けの新しい居住施設を〈活躍の園〉の敷地内に用意した。

 その内の一つが、これだ。その内の一つが、ここだ。カムパネルラが、この今、立っているここが。

 施設は、その他の〈活躍の園〉の施設と同様、外部からは巨大な白い円筒にしか見えないが、内部は吹き抜けになっている。吹き抜けの内部を見ることができるように、各階の壁の吹き抜け側は全面が金網になっている。

 身体拡張の施術を受ける前に、まだ栄養失調による障害が残るカムパネルラも金網の近くにまで連れてこられた。

 そして見ることになる。天井の大きなファンの隙間から、膨大な量の白い粉が噴霧されている光景を。

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