3-2-11-8

 粒子状完全食〈ソイレント・ホワイト〉の雪が降り注ぐ。しかしこの雪は積もるということがない。落ち行く先で、夥しい数の人間が口を大きく開けて待っているのだから。

 おおおおおおおおおっ! おおおおおおおおおっ! おおおおおおおっ! おおおおおおおっ!

 彼らは必ずしも痩せてはいない。栄養状態は良いようにすら見える。しかしまた、確かに、餓鬼そのものにも見える。

 おおおおおおおっ! おおっ! おおっ! おおっ! おおおおおおおおおっ!

 彼らは1日に3度噴霧される〈ソイレント・ホワイト〉を可能な限り吸いこもうと懸命なのだ。呼吸音が怒鳴り声にも聞こえてくる。

 カムパネルラが再教育のためにここへ来たとき、傍らの男が彼女に囁いていた。

「よく見ておきなさい。剥き出しの人間だ。ありのままの人間。ホモ・サケルだ。人生とは生きるものではない。生き延びるものなんだ。人間の権力への意志には際限がない。その無限性と資源の有限性との矛盾の解決はただ他の者を食らうことにしかない。この世はでっかい収容所、そうさ今こそアドベンチャーだ。わかるね? 誰かが命と引き換えに生産したエネルギーをいとも簡単に奪うことのできる君なら、わかるはずだよ」

 振り向いて、仰ぎ見て、確認した男の顔。真っ白い上弦の月が浮かんでいる。不思議の国のアリスに出てきたチェシャ猫の笑み。

 再教育施設に案内される途中で、カムパネルラは彼に会った。光沢のある緑色のネクタイをした男。博士と呼ばれていた男。再教育施設そのものに着いたのはさらに歩いてからだったが、再教育そのものはあの時から既に始まっていた。

 ここは住居を失った者たちを収容する施設であり、そして何より子供を脅し、矯正するための施設だった。

 カムパネルラは自分が引き摺って歩いてきた男の顔を平手打ちした。彼女は腕力の操作を忘れていた。彼の歯が歯茎から引き抜かれて、頬を貫いて口から出てきた。

――俺は地獄から生きて帰ってきた男だ。

 彼もまたベースボールキャップにボディアーマー。他の「兵士」と同じだ。ただ彼だけが着古した迷彩服を着ていた。

――俺は地獄から生還した。だから俺は人々を導かねばならない。地獄へと。俺はこの世界の未来を見た。だから俺は人々を導かねばならない。未来へと。

 両腕と両脚の骨を折ってからというもの、彼はもうこの話しかしなくなってしまった。

〈活躍の園〉は防衛省と文部科学省と厚生労働省の、日本近代史上初の官庁の協同の産物であり、その警備は三省が平等に指揮権を有する部隊――つまり烏合の衆によって警備されている。しかしそれも、ここが〈地下物流〉組織の金庫となる以前の話だ。実際は――彼のような「傭兵」が掻き集められ、警備の部隊として駐屯していたのだった。彼らは〈活躍の園〉を守るだけでなく〈活躍の園〉に守られていた。そこから彼らは自由に出撃することができた。

 エレベーターの指紋認証用のパネルに男の手を載せるが、「権限がありません!」という電子的に合成された音声が流れるだけだ。

 カムパネルラは自分の足に躓いて床に倒れた。〈バーストゾーン〉への漸進的な移行に伴って、ゆっくりと、しかし確実に離人感が高まっていく。身体を操作する感覚が失われていく。

――この星はもう終わりだ。今日人類が初めて万物の霊長の地位を失ったよ。俺たちはピテカントロプス・エレクトスになるんだよ。俺はイラクの砂漠で、お前のようなバケモンが地面を覆い尽くす光景を見ているんだよ。

 わかるか? わかるか? わかるか?

 骨を折られ、肉を裂かれたために、彼の両腕は肘から先が重力に従って垂れ下がっている。彼はその腕を振り回しながら床に座り込んだカムパネルラへ迫る。這うようにして進みながら。

「勤続年数が長そうな割にはこんな程度の権限しかないの?」

 迫ってくる彼の背後、心底から哀れむ声。カムパネルラは彼の頭を踏み潰す革靴を見た。文字通りに彼の頭はスイカのように潰れて、弾けた。

 チェックのスカートにライダースジャケットを合わせた少女がカムパネルラを見下ろしている。

 東堂東子……!

 東堂東子がここにいる。つまり、四宮四恩の弾除けが減る。何故こんなことになったのか、とカムパネルラは思う。助けに来たというのか? こんなことが起きないためにも、三島三緑に自分の映像を共有しないようにと念押ししたのに……?

 唇が震える。背中で生じた汗の一粒一粒の軌跡を感じる。カムパネルラは怒りを覚える。

 ところで東堂東子は何も言わずに、じっとカムパネルラを見つめている。瞳を乾かす必要がない彼女には涙腺がないはずだが、カムパネルラはこの全身を機械化された少女の涙目を幻視している。

 適切な引用元が想起できなくなる。

 うにうにうにうにうにうにぅ、とだけカムパネルラはどうにか声に出す。

「ばぁか」とだけ東子は言った。それから彼女を背負う。

〈《抗命は戦の華》! 戦列を乱して先走るのも、また! 大いに結構! 陽動ではない陽動こそ、最も優れた陽動! けれども四恩ちゃんを悲しませるのはだめじゃあないかな?〉

 三緑の声が頭に響いて五月蝿い。痛みすらある。

 その痛みを忽ちに癒したのは、やはり、四恩の声だった。

〈カム、パ、ネ――ルラ〉

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