3-2-10-1 真理の家

 地平線が見える。遮るものの一つとしてない。あるのは、砂、砂、砂――。距離の感覚を失いかける。堪らず見上げた空、太陽が真上に。もうかなりの時間、この砂漠を歩いていることを思い出す。一歩4メートルとして――時間と速度から距離を導く。正気そのものを取り戻す。

 そのことを誇示するように、前を歩く兵士の背中に大きな声をかける。

「あとどのくらいだ?」

「さあ……」

 彼は砂漠を縦隊になって進む兵士の1人だった。装甲車の1台も、ヘリコプターもない。コンピューターがコンタクトレンズに収まるようになった時代に、彼等は徒歩で、目標地点に向かっていた。

 コンピューターがコンタクトレンズに収まり、現金が廃止され、AIの発達が無数の雇用を奪っていたが、戦場はむしろ近代的戦争の始原にまで回帰していたということだ。そのことを彼は言葉ではなく心で理解した。彼が基地が見えなくなるほど遠くまで来たのは、これが初めてだった。基地の外はまるで前近代の戦場だ。

イスラーム国ISイスラム征服戦線ヌスラが手を引いた結果、この基地の外はダール・ル・ハックの勢力圏にある」

 出発前のブリーフィングでの説明――。

「ダール・ル・ハックは戦闘ヘリ、装甲車、戦車を優先的に攻撃する戦術を採用している。今回の任務は彼等の占領地を削ぐことではない。我々の任務は投下された物品の回収だ。よって、目標地点まで足だけで行くことになる」

 休憩! 600秒!

 砂漠の真ん中で兵士達が座り込む。若い連中は片膝立ちで周囲を警戒している。彼には関係のないこと。座り込んで、ブーツを脱ぐ。湿気取りのために新聞紙を詰め込む。こうした細かなセルフケアが生死を分けるのだ。こうした細かなセルフケアを忘れた連中――特に変動金利で教育ローンを借りて首が回らなくなった若年失業者に多い――から脱落する。非番に基地から飛び出して頭を拳銃で撃ち抜いたりする。

「ダール・ル・ハックって何だ」

「聞いてなかったのか……」

 同期、彼と同様に新聞紙をブーツに詰めている。呆れたように顔を左右に降る。芝居がかっている。

「ダールが家、アルが定冠詞、ハックが真理。音が縮まるから、ダール・ル・ハック。真理の家。聞いたことあるだろ」

 聞いたことがないはずがなかった。真理の家といえば、東京オリンピック連続テロ事件を起こした宗教団体だ。それ以前から、彼等は度々マスメディアに登場していた。その洗脳ビデオをYou Tubeで見たことがある。女子高生だか女子大生の、アイドルかモデルでも通じそうな美人の自称預言者が、暗い顔の青年を傍らに置いて、意外にも低い声で新参の信者に語りかけるビデオ。「偶像崇拝の街は燃やしなさい」もう日本では崩壊したはずの彼等は中東で復活していたのだ。

「あのアイドルみたいな教祖は現役?」

「いや引退したとかなんとか」

「引退ってお前、アイドルそのも――」

 片膝立ちになっていた若い男が、彼に双眼鏡を押し付けて来た。全くの無言で。無礼な振る舞い。旧日本軍なら鉄拳制裁だ。だが彼の唇は震えているし、彼の目は彼が双眼鏡を通して見ていた方向を見つめたままだ。無言のまま受け取り、地平線を見る。

 線に厚みはない。線は線だ。それが数学的に正しい記述だ。ところが、現実は意識を裏切り始めていた。地平線の所々に、半円の厚みが生じ始めていた。その半円はやがて隙間という隙間を埋めて、地平線そのものを分厚い、黒い壁へと変えた。

「ダール・ル・ハック教団軍……!」

 誰かの絞り出すような声。しかし、それは正しい記述ではない。ここは戦場で、記述の効果も考えなくてはならないのだ。

 双眼鏡を下ろすか、ブーツから新聞紙を抜き取るか、息を大きく吸い込むか、瞬きを止めるか、汗を拭うか、あらゆる選択肢が浮かんだが、ともかく彼は叫んだ。

 敵、敵、敵、敵、敵襲! て、き、しゅうううううううううううううううううううううううううううううううううううううう――!

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