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 兵士たちが彼に近い側から、殆ど順々に、腹這いになっていく。頭を下げることは、平時でも戦時でも、生き延びるための技術の一つだ。

 壁は砂嵐を作りながら、彼等へと接近しつつある。それは敵が大質量の物体を伴った集団であることを示している。即席の火力支援車両テクニカル以上の何か、もしかすると戦車すらあるかも知れない。

「敵襲……?」

 すぐ後ろから、か細い声が聞こえた。砂の食感を味わいながら身を捩り、振り返る。見上げる。そこには、彼と彼等に危険を感じたらすぐに腹這いになるように、暇があれば靴の中の湿気を取るように教えた部隊指揮官の姿があった。ところで、彼自身は立っていた。狙撃してくれといわんばかりの直立。

「どれ……?」

 彼の手から緩慢な動作で双眼鏡を取り上げる。覗き込む。バードウォッチングの風情。彼は怒りが込み上げてきた。この杜撰な行動計画は何だ。毎日基地の周囲を飛んでいるヘリコプターと戦闘機と米軍から買い取っている衛星写真の意味は何だ。我々がここにいる意味は何だ。危機感のない、無能な男に引き連れられ、ダール・ル・ハック教団軍に八つ裂きにされるために来たようなものだ。

「作戦は失敗だったな。あるいは、そう、俺の人生そのものが失敗だった」

「はい?」

 50人の兵士がほぼ等間隔に並んでいるとして、その間隔がちょうど1メートルだったとして、自分はその40人目であるとして、部隊指揮官が先頭にいたとして、ここまで歩いた距離は間隔の数が39であるから、39メートルで、時速4メートルなら秒速は――。

「ダール・ル・ハック教団軍がこの周辺を実効支配していると言ったな。あれは嘘だ」

 彼が誰よりも早く現実逃避を始めて四則演算をしたのは、結果的に彼を延命した。彼は指揮官が放り投げた双眼鏡を再び手にとった。他の者が「あれは嘘だ」という言葉の「あれ」が指すものを思い出している間に。それが「嘘」であるなら、この現在の状況は何なのか、自分たちは何と戦っているのかという複雑な問題に――眼前の敵を放置して――取り組んでいる間に。

 地平線を蹂躙しながら進む壁を、今一度、観察する。壁が何によって構成されているのかを、観察する。

 そしてそれはダール・ル・ハック教団軍ではない。

 無数の、見たことも聞いたこともない生き物の群れだ。

 そしてそれは壁ではない。

 異形の生物の絨毯だ。地平線の向こう、彼方までその絨毯は拡がっている。

 砂を舌と硬口蓋ですり潰しながら、その生物を最大望遠で見た。

 左右に3本ずつの脚、日光を鋭く反射する光沢のある皮膚、長い首、背中から生え出て、蒸気のようなものを絶えず吹き出している無数の触手。

 幼い時分の夏休み、山で採ってきた昆虫を殺し、解体し、虫かごの中で混ぜあわせたことがある。あれは、それだ。子どものような、純粋無垢で残酷なデザイナーの作品だ。

 長い首の先に猿の顔がある。猿の顔がある。猿の顔がある。

 彼は嘔吐し、二度目の現実逃避を直ちに中断する。双眼鏡を投げ捨てる。立ち上がる。彼は指揮官の後ろに従いて走り出した。

 猿ではない。猿の顔ではなかった。東京で、大阪で、仙台で、京都で、福岡で、北海道で、沖縄で見たことのある顔だった。人間の顔だった。

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