3-2-9-5
記憶の門が口を開き、彼を飲み込む。鳥栖も、鳥栖が呼び寄せた男たちも、そして末法の資本も意識の地平面の彼方に消え去った。彼女だけが、彼に向かって手を差し伸べている。
四宮四恩、四宮四恩、四宮四恩――!
〈活躍の園〉に入った彼は、その基礎的な能力の高さゆえに、最短の時間で軍の備品となることが決まった。彼のように高い能力を持つ者は、その存在自体が秩序を脅かす。軍はとにかく早期に、彼に規律訓練を施したかったのだ。最短の時間で軍に迎え入れられた彼は、かくして最長の訓練課程を用意されることになる。
その一つが――〈活躍の園〉でこれから〈還相〉を投与される者たちと、投与されたばかりの者たちの監視――。彼等は皆一様にパニックに陥る。それを「宥める」のが彼の仕事だった。
それは彼に最適な仕事だった。彼の電磁場が、これから待ち受ける未来のために泣き喚く者の涙を乾かし、声を掻き消す。それから、サピエンス全史を通じて、その先祖の誰も経験したことのない身体の機能と構造を得たために錯乱状態に陥った者を文字通り鎮圧した。もう何人も兵士を配置する必要はなくなった。
そして何より、教育効果もあった――。彼はホモ・サピエンスではなくホモ・サケルを見た。プロレタリアートですら、ありえない者たち。彼は組織なしには自分は生きられないという事実を、――事実を! 味わった。
「彼女が四宮四恩。私達の、最大の敵。どんな声で泣くのかは、私にはちょっとわからないな。音声データも少なくてね。心因性の発声障害があるようだ。彼女の殺し方は君達に、完全に、任せよう。君達が見てきた中で最も残酷な死を、同時に、彼女において実現しなさい」
無力であることを学習し続ける日々。毎日が一本の長い鎖のような。その終わりを告げたのが四宮四恩だった。吃りながら、彼女は終わりを告げた。
彼女は光学操作能力を得る前から、車椅子に乗っていた時から、既にして「観察」の天才だった。あの日も、彼女は青ざめた顔で、しかし確かに、〈活躍の園〉が収容するホモ・サケルの群れを「見ていた」。その横顔。誰もが目を背けてきたものを、見る、横顔。
彼はそれを守るためなら、何でもしようと決意した。だからまずは、急いで傘を用意した。放水の時間が迫っていたから。
守るためなら――。
守る?
「奥崎くん――わ、た、し、なんでもする――。したい――。まず、なにを、したら――? なにを、したら、嬉しい――?」
自分に向かって手を差し伸べる少女のイメージ。ゆっくりと、視界の中を専有していく、彼女の顔。眉は僅かに逆ハの字を描いている。表情に乏しい彼女の、懇親の、悲しげな顔。その原因は。
その原因は?
四宮四恩の顔を踏みつけていた者たちの足の数々は、今はもうない。闇から来た者たちは闇の中へ消えた。四宮四恩の顔だけが床の上で光り輝いている。
「奥崎くん」
残っているのは奥崎と、鳥栖だけだ。
「これを君に」
スーツのサイドポケットから直方体のケースを取り出す。眼鏡のケースに似ていなくもない。最強の高度身体拡張者は無警戒にそれを受け取る。開ける。中では2つの球体が並んでいる。
「私の目だ。まずは目をあげよう」
と言う鳥栖の瞳は爛々として、彼の顔に収まっている。その矛盾に、彼は一瞬、息を飲む。
いや――その矛盾の意味するところに。
彼は自分が何と契約したのかを思い知りつつある。ゆっくりと蓋を閉じて、時間を稼ぐ。自分がまだ対等な契約主体だとこの男に思わせるための、最も適切な言葉を考えるための時間を。
「前から聞きたかったのだけど、博士、貴方は、何人いるの?」
「さあ何人だろう? 実のところ私も把握していないのだよ」
ボディガードもなしにどんな戦場にも現れて、必要な人間と必要な武装を届け、速やかに去っていくことができるのは、このためだったのだ。
鳥栖二郎は本当に、固有名を捨てていた。
「オリジナルは何処に?」
この質問は悪手だった。鳥栖はチェシャ猫の笑みを浮かべていた。
「オリジナルなど、ない。オリジナルはコピーと区別されることで観察されるが、私は鳥栖二郎のコピーではない。だからオリジナルは存在しない。強いて言うなら、私は鳥栖二郎のシミュラークルかな。あるいは、こう考えても良いよ。君が理解しやすいなら。鳥栖二郎という集団がある、と」
ああ、シミュラークルか、それはわかりやすい、と言いながら彼は鳥栖二郎の手を掴む。電流を流し込む。超高電圧が鳥栖に叫び声すら許さない。沸騰して膨張した血液が皮膚を爆裂させた。暴露された贓物が燃え上がった。
直後、鳥栖二郎からの無線通信。
〈ああ、まったく。彼は秋葉原でファーストフードを一緒に食べた個体だったのに。情というものはないのかね?〉
「オリジナルに会わせろ!」
地下空間に彼の叫び声が木霊する。鳥栖二郎の笑い声と合流する。
〈オリジナルなど存在しない。人は鳥栖二郎に生まれて……あははっ……生まれてくるのではない……あひあひあひ……鳥栖二郎になるんだ。君も鳥栖二郎になる。それ以外に選択肢があるかね?〉
床の上に投影されていた四宮四恩の顔が流動体と化す。床へと溶けていくアニメーション。それが終わる前に、彼は彼女が自分にしてくれたこと、してくれたかも知れないことを思い出そうとする。
「なにを、したら、嬉しい――?」
だが思い出せない。彼女のか細い声だけが頭の中、リピートしている。
彼女と交わした会話を思い出すことすら、もう、できない。
あるのは彼女を守ろうという意志だけ――。
そう、彼女を守ろう――。
〈奥崎くん、さて、どうする?〉
「僕は貴方になる。僕は貴方になって、貴方から大切なものを守る」
〈『これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし』〉
鳥栖二郎が歌うように言った。勝ち誇るように続けた。
〈『しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず』〉
――3-2-9 おわり
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