3-2-9-1 我らの狂気を生き延びる道を教えよ
黄金に輝く壁が彼の左右に立っている。それは何処までも続いているようにさえ、見える。その価値、価格を計算しようとして、しかし彼はすぐにやめる。多くの者を狂わせてきた金色を浴びることに専念する。彼は壁の高さを知っていても、厚みについては知らなかった。計算しようもない。いや、知っていたとしても、計算しようがないだろう。
壁の材料――金地金は、その国際市場が今まさに開いていて、ハイパーインフレーションから資産を防衛しようとする富裕層が先を争って購入中なのだから。
人類史的欲望の、暴力的な実現とも言える光景を背後にして、スマートレティーナが視界の第2層を立ち上げる。彼はそんな挙動を眼球表面の機械に許可した覚えはなかった。つまり、緊急の無線通信。見ると、フローティングウィンドウにチェシャ猫のような笑みを浮かべた男の画像が表示されている。光沢のある緑色のネクタイに、フランネルのスーツ。この世で最も話したくないが、話さざるをえない男の顔。画像のすぐ下には、聞いたことも見たこともない名前を意味する文字列。
「こんにちは、博士。黄金の壁が、貴方にも見えているかな?」
〈こんにちは、奥崎くん。しっかりと見えているよ〉
鳥栖二郎が焦りのために表情を変えることを、奥崎謙一は予期する。期待する。だが、それは裏切られる。彼は満面の笑みを浮かべたまま、言う。
〈森山くんが死んだよ。《頭蓋骨骨折及び脳挫傷。鼻骨骨折。第7歯から第4歯欠損。第1歯及び第2歯欠損。頚椎捻挫、左鎖骨不完全骨折。右上腕骨不完全骨折、右手手根骨及び中手骨完全及び不完全骨折》……〉
森山――〈地下物流〉組織の管理人の1人。抜け目のないリアリスト――を気取った、ただの守銭奴。その死の過程に、興味を持つことができるはずもなかった。
「長いよ、博士」
〈確かに、ね。しかし、《これでやっと半分》というところだよ。傑作なのが、これで直接の死因が肺に折れた肋骨が突き刺さったことらしい。人間は意外にも頑丈なのだね〉
「人間は頑丈だよ。知らなかった?」
真面目に学校へ行くような子どもでもなかったからね私は、と鳥栖は笑いながら言う。学校で教わるようなことじゃないよ戦争が常態化した世界では常識なんだよ、と奥崎は笑いながら言う。2人の哄笑が重なり合う。
奥崎は彼が怒りのために表情を廃棄する瞬間まで、笑うつもりだった。
森山の死は、彼の予期の、予測の通りの事態であり、彼が予定していた事態なのだから――。
あの男が何処で誰に保護されているのか、奥崎は正確に把握していたのだった。
〈137〉にあの男を何処でどのように保護すべきか教えたのは、彼自身なのだから――。
反粛軍派と取引して粛軍派の大物を殺し、〈地下物流〉組織と取引して反粛軍派の大物を殺し、〈137〉と取引して〈地下物流〉組織の管理人を数人、殺した。〈地下物流〉組織は奥崎と、そして彼が操作する帰還兵を恐れて、〈137〉と取引した。既に奥崎と取引していた〈137〉と――。
その契約交渉は実に簡単だった。〈137〉の本部長は、奥崎の有用性を理解していた。彼は奥崎の有用性を経験していた。自分の組織から、文字通り跡形もなく、不必要な者をパージするための処刑機械としての有用性を。
とはいえ、四宮四恩までもが、パージの対象に選ばれていたのは意外だった。選定基準が、彼の想像とは違ったのだ。
案外、あの本部長は人道主義者なのかも知れない――仮に多数の命を救うために少数の命を犠牲にすることが倫理的な行為なのだとすれば……。
だがどんなに高潔な人物とも、奥崎は〈地下物流〉の資産を共有するつもりはなかった。家父長主義の軍人や、チェシャ猫のような笑みを浮かべる博士号取得者となら、なおのこと。
彼の目的には絶対に独占が必要だった。
だから森山の殺害が必要だった。
本当に彼らの生殺与奪を握っているのが誰か、教えなくてはならない。
〈137〉にも、鳥栖二郎にも……。
アレッポの戦場を経験し、彼の能力の庇護を受けたことがあり、故に彼を崇拝する者たちに森山の、同志の死を金に換えてきた男の居場所は伝えてあった。そのコミュニケーションの目的が成就したのだ。
この今より、操作していた者たちが操作されることになる。
〈137〉も、鳥栖二郎も……。
〈いやあ――〉
鳥栖は笑い過ぎたために流した涙を拭いながら、言う。
〈本当に傑作だ。人間というのは、頑丈なんだ。そのことを彼女は教えようとしてくれたのかも知れないな。実際、これ以上に優れた伝達方法はない〉
「彼女?」
〈四宮四恩。〈137〉と〈地下物流〉組織と我々の敵である彼女〉
鳥栖二郎の表情はもう、廃棄されている。奥崎もまた、それを廃棄する。
〈今後、戦争の利益を配分する権利を持つのは誰なのか、この国の者たちに示すための生贄である彼女〉
紙片を踏みつけて、彼は立ち止まる。足元、ドル紙幣が散らばっている。ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、エイブラハム・リンカーン、アレクサンダー・ハミルトン、アンドリュー・ジャクソン、ユリシーズ・S・グラント、ベンジャミン・フランクリンが彼を見上げている。
〈彼女と愉快な仲間たちが森山くんを拷問後に走行中の車から放り投げて殺害した。恐るべき子供たちだね、まったく〉
黄金の壁は消えていた。そのためにむしろ、彼は黄金の量、その計算不可能性を思い知る。ドル紙幣の山々の向こうには、黄金の柱さえ、立っていた。
〈素晴らしい風景だ。君が独り占めしたくなる気持ちもわかるよ。だが、欲望を統御できなければ身を滅ぼす。学校で教わらなかったのかね?〉
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