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 石嶺磐音が黒い箱の後ろについて、両手で押し始める。四宮四恩の両手が空いたことに気づき、彼女は急いでその手を取る。風船を離してしまう。すかさず、四宮四恩の細長い手がその紐を掴み、彼女のサスペンダーの肩に結びつける。

 いいいいっいいっいいいいっいいっ――。

 彼女は思わず声を出して笑った。

〈急いで! 遠足じゃあないのよ!〉

 遠足でなかったら何なのだろう、と彼女は思った。思ったが、反論になりそうなセンテンスを引用することはできなかった。その前に四宮四恩が小さく頷いて、その足の動きを早めたからだ。

 ホテルのロビーへ出ると、床に倒れ伏した人々が彼女たちを出迎える。血の1滴を流すこともなく彼らは床に寝ている。フロントには誰も立っていない。そのカウンターの向こうで、ホテル従業員の3人が寝ている。そのことを、彼女は知っている。監視カメラも全て潰してある。そのことも、彼女は知っている。

 それは極単純な理由で、つまり、この場にいる全員を昏倒させたのは彼女自身だからだ。

〈実際、大したものよね。閃光発煙筒の2本でこんなことができるなんて〉

「東子は鏡子の能力がどういうものか、見たのですか?」

〈ぼくも見たよ。見せようか?〉

「だ、め――だめ――」

 四宮四恩が短くそう言った。それから続けて「カメラ、壊しといて、くれ、た――の。ありっ、がっ、と――」と、彼女の耳元で吐くように言った。彼女は四宮四恩の手を強く握りしめて、「どういたしまして」の代わりにした。

 高度身体拡張者は、人間の姿形を保ちつつ、特殊な能力を発現する。〈還相〉はその矛盾を皮膚や臓器などを「拡張」することで解決するが、思春期の少年少女の心理がその矛盾を解決することまで可能にするものではない。

 彼女は、全身からガス――サリンよりも強力な――を放出する能力を持ったがゆえに、現場でいつも恥ずかしがっていた少女に会ったことがあるし、その恥の観念の惹起を理解もできた。

 それは極単純な理由で、つまり、彼女自身も自分の能力の発動の瞬間を恥じていたのだった。

〈ぼくとしたことがアウティングするところだったよ。ごめんなさい〉

「そうでした。わたくしたちはコンプライアンス意識の高い部隊にならな――」

 返り血で紅のドレスを着た石嶺磐音が途中で言葉を止めたのは、ロビーに入ってきたタクシー運転手の中年男性を見たからだった。

 AIの、自動運転技術の発展で将来的に消えてなくなる職業と言われたタクシー運転手だが、その手の記事を書いていた人々が瞬く間に文章自動生成プログラムに敗北したのと反対に、むしろ新興富裕層の顕示的消費の対象として重宝されるようになっていた。

 そしてなるほど、AIにはまだ困難であるはずの反応速度で、彼はロビーで起きていることの異常性と、黒い箱を運んでいる3人の少女たちの異常性とを理解したらしい。大理石の床の滑らかさを利用して美しい回れ右をすると、ロビーを出ていった。

〈こっちでも確認したわ。どうせもうスマートレティーナで通報されているはず。追わなくていいでしょう?〉

「わたし、たち、は、コンプライアンス意識が高いから――」

「『人生は美しい』!」

 ホテルの外。車寄せに並ぶ高級外車と自動運転車の車列の中で、その黒塗りのワンボックスカーのクラシカルな外観は一際異彩を放っていた。

「『未来の世代をして、人生からすべての悪と抑圧と暴力を一掃させ、心ゆくまで人生を享受せしめよ』!」

 そして勿論、それこそが彼女たちが乗り込む車であり、黒い箱を積み込む車だった。

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