3-2-7-1 末法資本その2、あるいはカムパネルラ、モンモランシー、アリシア・クラリー、友永鏡子、三村菜穂子

 スマートレティーナが作り出す視界の第二層が、四宮四恩の顔を映し出す。彼女は嬉しくなって、思わず手を伸ばす。勿論、そのスクリーンは網膜上に形成されているのであって、触れることは叶わない。それに、四宮四恩が映ったのは一瞬のことであって、すぐに映像は黒い箱の側面に切り替わった。

 それは音響機器を運搬するための箱だった。けれども、どうやら中に入っているのは音響機器ではないらしい。音響機器は内側から箱を叩くことはないだろう。

〈警察、軍、〈137〉、どれが来ても詰み。そうなったら私は迎えに行くのをやめて、海を渡るわ〉

 東堂東子……。

〈あの箱の中に〈137〉の子たちが入っていたなんてね。重量がわかればなあ〉

 三島三縁……。

〈とっても便利ですわ、これ。キャスターもついてるし〉

 石嶺磐音……。

 今、彼女が四宮四恩を見る方法は石嶺磐音のスマートレティーナを経由するしかなかったのだが、その石嶺磐音はエレベーターの階数表示の変化を見ていた。四宮四恩のスマートレティーナに同期すると四宮四恩の頭の中に入り込んだ気分にはなれるが、四宮四恩そのものを見ることができない。

 ジレンマ……。

 それに何と言っても、四宮四恩は殆ど声を出さない。四宮四恩を感じることの難しさに彼女は苛立ち、ソファから立つ。鼠を高度に擬人化・デフォルメしたキャラクターの描かれた紙袋と風船を手に取る。エレベーターホールへ向かうことにする。もう、やることと言えば、四宮四恩と石嶺磐音に合流するより他にはないのだ。彼女の仕事は、四宮四恩と石嶺磐音がエレベーターに乗り込むと同時に終わっていた。

「『ぼくがたたかふなら』」

 彼女は名前を持っていなかった。マイナンバーもマイナンバーカードも発行されてはいたが、〈活躍の園〉でも〈137〉でも、IDで呼ばれていた。その期間の長さのために、彼女は自分の名前というものに対する実感に乏しかった。〈137〉で与えられた、実験動物と連番のIDなら、暗唱すらできたが。

「『ぼくはまだ生きてゐるのだ』」

 彼女の母は彼女を自宅トイレで出産後、キャバレークラブでの労働のために家を出た。その後でカジノが全面的に解禁されてすっかり衰退産業と化したパチンコ店での労働があった。母は、パチンコ店ですっかり衣服を煙草臭くされながらも、帰路に薬局で粉ミルクと哺乳瓶を購入していたが、まだ乳幼児だった彼女には、その連続勤務はあまりにも長く、彼女のための粉ミルクと哺乳瓶が買われている時に、彼女は栄養失調で手足を微細動させていたのだった。

「『救ひのない春』」

 かくして彼女は「保護」されて〈活躍の園〉に入り、〈還相〉を投与されて〈137〉に入った。

「『ちひさな春』」

 名前に対する、過去に対する固執の一切ない彼女は〈137〉に歓迎され、評価され、一時はまもなく寮の最上階に住むことを内定するほどだった。それがついに地下の地下の地下までに行ったのは、彼女の記憶力のためだ。

「『ぼくはまだ生きてゐるのだ』」

 それが高度身体拡張者の拡張された認識能力に由来するものなのかどうか、それは彼女の知り及ぶところではなかったが、ともかく彼女はその記憶力のために自分が殺害した身体拡張者たちの亡霊を――殺した時の、肉を裂いて、骨を砕いて、脳を掻き出した時の感触を味わうとともに――毎晩見ることになり、最後にはありとあらゆる瞬間に見ることになった。

 彼女は懸命に恐怖を訴え、「仲間たち」と、そして「大人たち」に助けを求めたが、存在しないものの存在を前提する彼女の言葉は誰にも相手にされることはなかった。虚言、妄想として切り捨てられた。以後、彼女は出版市場で流通している「正しい日本語」だけを話すことに決めたのだったが、今度は一転、精神病患者として、治療の対象として相手にされるようになった。とはいえ、それから直ちに、治療の見込みがないからか、あるいはそれ自体が治療なのか、地下の地下の地下へ収容されたのだけれども。

 だから食堂で四宮四恩が何に恐怖しているのか、彼女にはすぐにわかった。どのような言葉を掛ければ良いのかもすぐにわかった。彼女は価値が伝達できるなどと無邪気に信じてはいなかったが、それでも四宮四恩が外の世界を冒険してきたと知った時は、その伝達の可能性に触れることができた。

 加えて、今や二度目の冒険に、自分を連れ出してくれたのだ。

 いや、あれはもう殆ど求婚にも似ていた気がする。

 何と言われて冒険に誘われたのか、彼女は何故か正確に思い出せなかった。思い出そうとすると、口元が緩んでしまい、四宮四恩の長い髪の、僅かに跳ねた毛先のイメージが流れ込んでくる。「あなたが私の人生に現れてくれた、あの瞬間からあなたを愛したし、今も愛しているし、その間の毎秒毎秒もずっと愛し続けていた」だったような気がしてならなかったが、あまり自信はない。

 エレベーターの扉がついに開く。ドレス姿の四宮四恩と石嶺磐音が、黒い箱の左右に立っている。2人のドレスは別々の色だったが、今は同じ紅に染まっている。

 彼女は紙袋からコートを取り出し、2人の肩に掛ける。「あり、が、とう、カムパッ、ネルラッ――」と四宮四恩が絞り出すようにして言ったため、彼女の――カムパネルラの頬もまた、桃色を通り越して紅にまで染め上げられた。

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