3-2-5-1 重大な犯罪を行うことの合意、または組織的な犯罪集団の活動への参加
鼻血を拭き取る手を止めて、東子の顔の向こうにある景色を見た。その異様はガラス越しにもはっきりとわかった。
壁画が描かれている。半裸の男たちが躍動する、奇妙な壁画。描いた者の、何事かを伝達したいという猛烈な意志に圧倒された四恩を冷静にしたのは、壁画の最上部に描かれた文字列――名栗武州世直し一揆。
「ああ……」
東子も僅かに顔を動かして、自分の右手に拡がった壁画を見た。
「何なのかしら、これ」
〈1866年に
カーオーディオから三縁の声が響いて彼女たちの疑問に答えた。
「不吉だわ。どうせ最後には幕府軍か何かに鎮圧されたわけでしょう」
〈一週間くらいで鎮圧。首謀者は死罪になる前に獄死〉
「『世界中のすべての権利=法は闘い取られたものである。重要な法命題はすべて、まずこれに逆らう者から闘い取られねばならなかった』」
カムパネルラの珍しく感情の籠もった言葉。
「そうそう。鏡子さんの引用はいつも的確ですね! きっとこれは吉兆ですよ!」
カムパネルラに鏡子と自己紹介されている磐音のポジティブ・シンキング。
吉兆――。
そうであって欲しいと、四恩は思った。そうでなければ自分のために最低限度の戦闘の物真似をして道を開いてくれた〈137〉の同僚に申し訳が立たない。
いや、それどころか――また、亡霊が、枕元に、立つ。
以後は景色の全てを吉兆と解釈しようと四恩が決意した時にはもう、目的地に着いていた。
有間ダムの管理用道路、その殆ど真ん中で東子は車を停めた。有馬湖と名付けられたダム湖が見渡せる場所。人の脚でも十分に降りていけそうな緩やかな斜面の向こうで、湖面が揺れている。管理所のすぐ近くの斜面では、老人が山羊に雑草を食べさせていた。
牧歌的な、あまりに牧歌的な風景に、車から降りた四恩はしばらく、このまま、湖を見て一日を過ごしたい――何だったら徒歩で一周したいとさえ思う。
そんな彼女の思いを決して許さないとばかりに、彼女たちの乗っていた車のバンパーに触れるような形で、もう1台の車が向かい合うように停車した。
四恩は、タイヤが地面に食いつく音を聞いた。自動運転車ではありえない、人間の判断がまだ信頼されていた頃にだけ響いていた音だった。
ゼネラル・モーターズのキャデラックの、黒光りするドアを自分で開けて降りてきたのは、あのナナフシ型ロボット――武野無方だった。ダークグレーのスーツに黒いコートを着た彼は、いよいよ相変異したナナフシに見えた。
「四宮さん、こんにちは。こうして直にお会いするのは二度目ですね。東堂さん、こんにちは。こうして直にお会いするのは三度目ですね。石嶺さん、こんにちは。こうして直にお会いするのは二度目ですね」
武野はまず、いかにも顔見知りの人にはこのように挨拶しなければならないと後天的に学習したような、形だけの挨拶を早口に繰り返した。それから、カムパネルラの前に立って、「武野無方です。あなたのお名前を教えてください」とこれもやはり教えて欲しいという気持ちの感じられぬ淡々とした口調で言った。
「『名前って何なの? 私たちが薔薇と呼ぶ花が別の名前でも、同じように甘い香りがするでしょう』」
「『名前って何なの? 私たちが薔薇と呼ぶ花が別の名前でも、同じように甘い香りがするでしょう』さん、ですか。よろしくお願いします」
吉兆とは――。
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