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にわかに空気の交換。磐音のいる部屋の冷え冷えとしたそれと、廊下の生温かいそれとの。運ばれてきたのは熱だけではなかった。
猛烈な臭気。乾燥した精液の生臭さをすら掻き消すような、臭い。口の中で味覚をすら刺激する、臭い。窓を開けなくては。毛布から出ようとする。
彼女の身体が動くより早く、毛布そのものが動き出す。それは天井へ飛び上がる。床に落ちる。埃が舞い上がる。
父の顔が、今、彼女の顔のすぐ前にあった。酒と煙草とコーヒーと今朝のオートミールの臭いを、彼女はたっぷりと味わう。咽る。涙で視界が歪む。咳で視界が揺れる。それでもはっきりと見える。父の顔が、満月のように開かれた目が、三日月のように開かれた口が、顔全体を濡らす汗が。
「もしも人生が……」
毛布を取り扱うようにして、彼は彼女の髪を掴んで持ち上げようとする。彼女は毛布と違って足があったから、床を踏んで毛根にかかる力の、せめて自分の体重分だけは和らげようと考える。かくして彼は彼女をさしたる力も必要とせずに、廊下へと連れ出す。
「もしも人生が幻滅しか齎さないのならば……」
臭気はますます強くなる。その臭いの元が何であるか、彼女は殆ど直感している。廊下はあまりにも短く、彼女が世界を肯定するロジックを生み出すためには、あまりにも時間がない。彼女は初めて、父に抵抗する。その手に、爪を立てる。だが、期限の延長はされない。むしろ哄笑を聞く。
オヒオヒオヒオヒオヒオヒオヒオヒオヒオヒオヒオヒオヒオヒオヒオヒオヒオヒ――。
「もしも人生が幻滅しか齎さないのならば、そんな人生は生きるに値しない」
その哄笑に、彼女は自分の前髪をライターで焼かれた時のことを思い出す。その時に部屋に満ち満ちた臭いのことを、思い出す。そして備える。廊下の先、狭い風呂場で焼かれた物を――者を見る瞬間に。
「うるせぇよアル中!」
玄関を叩く音。乱暴な隣人。しかし今の彼女にとっては、間違いなく、善き隣人。
「何食ってんだキチガイ! くっせえんだよ!」
善き隣人が玄関を蹴る音が響く中、彼女はバスタブの中で焼かれた者を見る。焼かれている者を、見る。
皮膚と髪の毛を燃え落とされ、唇を水疱に包まれ、瞳は濁ってしまっても、彼女にはそれが自分の弟であることがはっきりとわかった。例えそれが、この狭小で滑稽な、囚人の3人しかいない地獄の外であっても、彼女には瞬間にわかったはずだ。
いつも彼女から痛みを取り去ってくれた手が、この時もやはり、彼女に向かって伸びていたのだから。
はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ――。
父に放り込まれる前に、バスタブへ自ら入る。荒い呼吸の弟の両脇に膝を付いて、立つ。彼の胸に触れる。熱波で柔らかくなった彼の肉が、彼女の手を半ばまで飲み込む。
はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ――。
「『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか』」
父の声。しかし磐音には、あの隣人の怒鳴り声こそ、福音だった。
「くそじじい! くっせえくっせえ! 灯油か? 何燃やしてんだ? 警察呼んだかんな! 通報したかんな! ネットにも書いてやるかんな! お前なんか住めないようにしてやるかんな!」
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