3-2-2-6

 水槽の中身を循環させるための機械音だけが響く。

 ぶうぅぅぅぅぅぅぅ――。

〈うん。それは……そうなんだよ、うん〉

 四恩は寮の最上階の角部屋を使える高度身体拡張者ではあった。しかしそれでも、彼女が亡霊を追い回し、憲兵と麻薬取締官を巻き込み、ニューロコンピュータ―の1台を私的に利用した問題の責任をとるためには、その存在は耐え難いほどに軽かった。彼女が地下奥深くに、それも研究部門の最高責任者たる釜石透の特別の配慮を受けられる地下奥深くに入るだけでは、とても問題の大きさと釣り合うはずもなかった。そのあまりにも大きな差を埋めたのが、プールに収まっているだけでは我慢できずに、分不相応な野心を抱いてしまった三島三縁の死への廃棄だ。

〈余計なことしなければ良かった〉

「余計な、こと――って」

〈手紙。ぼくの考えうる限り、短く、君が日常へ復帰できることを示すための手紙〉

 少し考えれば、そんな道理――発生した問題と責任の不均衡は四恩にも簡単にわかった。彼女はそこまで自惚れているつもりはなかった。ただ、考えることをやめていただけだ。考えることに倦んでいただけだ。この上、自分のために、何をする必要があるのか、彼女にはわからなかった。〈ソイレント・ホワイト〉を舐め取るより他に――。

「ちゃんと、届いたよ。だから――ここに、いる」

 だが、もしも、自分ではなく誰かのためにということであれば、そう――少し考えれば、わかることだ。

「東子と、磐音は、2人は、どうなったの――」

〈彼女たちは……元に戻った。日常に帰った。とはいえ、その崩壊が少し早まったようではあるけど。石嶺さんは、解雇かな。東子は、まあ、近いうちにフレームアップして消え去るだろう。彼女の身体は金食い虫だからさ〉

「東子と、磐音は、2人は、どうなるの――」

〈さて……。どうなるかな。2人とも悪ぶっているけど、それなりに道徳的な人間ではあるから、この国の大多数の人間が経済的社会的に行き詰まった時にそうするように、自殺するんじゃないかな。そうでないなら、《137》の子たちが派遣されて、彼女たちを彼女たちのワンルームで殺すことになるだろう。いや、東子の場合は、メンテナンスができなくなるだけだから、ただ放置されるのかな。いずれにせよ、君が会うようなことは、ないと思うけれども〉

 身体拡張者が〈還相抑制剤〉の処方を受け取らなくなり、〈バーストゾーン〉に移行する蓋然性が高いと判断された後も、決して〈137〉はおろか警察すら彼の状態を確認することがないのは、この国では普通、そうなる前に、自殺を選ぶ人間が多いからだ。コストパフォマンスの点から、〈137〉の少女たちは、常に事後に現場へと送り込まれることになっている。この国は遥か寒冷地の国々と同じ程度に、自殺大国だ。

 東子――自分の身体を抱いた少女――自分1人では決して維持しようのない、あまりにも重苦しい機械の身体をしかし自分で抱きしめようとしていた少女――笑った時の八重歯――煙草を食べるパフォマンス――四恩って呼ぶことにする、という律儀な宣言――。

 磐音――政治的に敗北した身体のまま、しかし生き延び続けようとした少女――丁寧な言葉遣いと職務への献身で武装しているが――本当は、たぶん、拳で語り合うことができるとか思っているタイプの――胸のうちに熱い者を秘めている――〈バーストゾーン〉に移行して明らかに様子のおかしい年下の少女にも敬語を使い続けるほどに――。

 東子、磐音の顔が浮かんで、その上に東堂東子と石嶺磐音の文字列が重なって闇の彼方に消えたと同時に、反作用のようにして、結城結乃の、御厨水青の――小林小町の――過ぎ去ろうとしない人々の顔が浮かび上がってきた。脳の熱暴走を感じた彼女は水槽に額をつけた。泡とパイプの向こうに三島三縁の身体が沈んでいる。

 ぼくはね、首を捻られたんだよ。きみはね、需要があるんだよ。

 三島三縁の、あの透き通るような、説得のための、諭すような、穏やかな口調を四恩は想起する。

 それから、母のあの声も――。

――貴女は生まれてくるべきじゃなかった。

「かっちん」

「何のオノマトペなの」

「キレた」

「ああ……」

――貴女は生まれてくるべきじゃなかった。

「なにが需要だ、馬鹿っ」

〈は、はい〉

 三縁が声を震わせて返事をした。

――貴女は生まれてくるべきじゃなかった。

「もう誰も死ぬ必要はない」

〈はい〉

――貴女は生まれてくるべきじゃなかった。

「よって、もう誰も自分を殺す必要はない」

〈はい〉

「わたしは、ここを出る。奥崎くんをふん縛って、連れ帰る。三縁はもう少し上の階のプールに戻る。水青と結乃と東子と磐音、それか――小林さんも、小林さんも名誉回復する。みんな幸せになる」

〈きみは?〉

「わたしは――すっ、きり、する」

〈なるほどねえ。それは大事なことだ。ぼくに協力できることはあるかな〉

「しなくて――いい。それより、謝らないと――。わたしが、裏切ったから――。三縁はいつでも、冷静だったのに、わたしが――台無しにしたから。本当に、ごめん、なさい――」

 謝らなくてはならない人、謝ったところで感情的な埋め合わせにすらならなさそうな人を相手にとにかく謝るという、絶対に必要で、完璧に行わなくてはならないことをするのに、しかし四恩は長すぎる時間を使ったし、貼り付いた上下の歯を引き離すのに汗までかいた。

 四恩のそのような態度が空気か光かによって感染したのか、三縁も小さく、震える声で言う。

〈ぼくたちは共犯者だろう?〉

 彼女は自分の能力に初めて、感謝した。その力は、身体のない子どもとも、見つめ合うということを可能にしていた。彼女は彼女の瞳が反射する光を採光し、一つの像を作り出しているレンズを天井と床の向こう側に感覚した。

「『自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ぬというほど、人間は強くないんです』」

 振り返ると、カムパネルラがハンガーにかけた一揃いの〈137〉指定制服を左右の手に持っていた。

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