3-1-2-2
自由になる身体が欲しかった。自分の自由になる身体が。いや――さらに一本、いつの間にか咥えていた煙草を、火をつけずにそのまま口の中に入れる――自由が欲しかった。全身の筋肉が劣化した時、彼女が存在し続けたのは自殺できなかったからだった。全身の筋肉の代わりになる物を手に入れた時、彼女が存在し続けているのも――結局は、自殺できていないから?
筋萎縮性側索硬化症は運動神経細胞を破壊し、脳と筋肉のコミュニケーションを阻害する。人間身体は運動神経細胞を通して、自分自身を動かしているのだ。問題は、ただコミュニケーションだった。彼女は、当時、〈身体拡張技術〉の名前を求めて相争う技術群の一つ、〈義体化〉の被検体となって、このコミュニケーションの問題を解決した。それは視覚野と運動部位を連結することで問題を回避し、彼女に自分で動かせる身体を与えた。その代償に筋萎縮性側索硬化症が破壊しなかった多くの機能を失った――例えば、味覚を――。
自分の動かしたい時に動かしたい部位が動かせる喜びは、しばし彼女に自分が被検体であることを忘れさせた。だが、本当にそれは「しばし」のことだった。今や多くの身体拡張者が拡張された身体を得るために生じた借金を返すために中東の砂漠を駆け回っているように、彼女もまた軍産学の複合体の内部を駆け回ることになった。〈義体化〉の、そして自分の価値を証明するために。その試みは、今、こうして墓場を延々と掘り返す作業として結実した。勝利、勝利。まやかしの勝利。この上なく馬鹿馬鹿しい勝利。
かぽんっ。
棺桶の蓋のこじ開けられた音が、墓苑に響き渡る。
そうして、戦争の終わる日まで、つまりは最後の審判の日まで続くであろう墓苑参列者の波が、この今だけ、この瞬間だけ、崩れて落ちた。
彼らが一斉に各々の動きを止めていた。
束の間、静寂が墓苑を満たす。
彼女はそれを払いのけるようにして、今度は意識的に煙草を咥えた。
火をつける。
ゆっくりと煙を吸い込む。
人工肺を傷つけているという錯覚に、慰撫される。
慰撫される……。
ポシェットにある紙巻きたばこを全部取り出して、口の中に入れる。
慰撫はもう必要ない。
必要なのは慰撫ではない。
「リスみたい」
目を閉じて、顔全体で煙草を咀嚼していた東子にそう言ったのは、音もなく近づいてきていた石嶺磐音だった。
「ひごとはだうひたお」
刻んだ煙草の葉を飛ばしながら、言った。
「幾つかの契約が違反があったので解雇され、今は、ええと、今はフリーランスです」
「ルンペンね」
明後日の方向を見ながら磐音が否定する。
「いえ、フリーランス。自由な槍兵です」
「プーね」
「いえ、フリー……プーとは何ですか?」
「プーはね……プロレタリアートの俗語よ」
「なるほど。知りませんでしたわ。なんだか可愛いから、好きです。プーって自称するようにしようかな」
「そうしなさい。誇り高き、二重の意味で自由な労働者よ」
「『自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と』……」
「『自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味」
「抽象的議論に移行するのは、具体的行動からの逃避ではありませんこと?」
「そんなことありませんのことよ」
「なあに、その言葉遣い。馬鹿にしてるの?」
「そんなことありませんのことよ」
建設機械が地上に並べられた棺桶の封印を直し、地下へと降ろしていく。2人は殆ど肩を寄せ合うようにして、その一連の作業を見る。
「ちょっと付き合ってくれない?」
「それ、わたしくしが先に言うつもりでした」
「あら、そう。珍しいわね、貴女から人を誘うなんて」
「三島くんに誘われて」
「あら、そう」
2人は建設機械に前後をエスコートされながら、軽い足取りで墓苑を出ていく。黒い波が彼女たちのために道を作っている。
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