3-1-2-1 ALS・東堂東子・TLS

 黒い波が寄せては返す様を、東堂東子は煙草を咥えて眺めている。波の中、時折、光り輝く球体が彼女を写し撮る。彼女はそれに舌打ちして応じる。その周囲では建設機械が忙しなく動いている。墓を暴き、死者の残した物を確認するため。現在まで、成果なし。あるはずがない。それを彼女は知っている。

 未来は長く続く。それこそが憂鬱の正体だと思っていたが、未来が長く続かないことがわかった今でも、憂鬱の方は続いていた。憂鬱は明らかにもっとフィジカルなものに根ざしていた。存在が意識を規定する。そんな唯物論者のテーゼを思い出す。

 四宮四恩は軍務で絶望し幽霊を追いかけて発狂した。そういうことになっている。そういうことにすることで、彼女は四恩と関わる前の立場をどうにか取り戻した。

 だから?

 こんな状況を取り戻したから、何だと言うのだろう。先がないことははっきりしている。まだ掘り返していない戦没者の墓は幾らでもある。だが、それでも、先がないことははっきりしている。成果がないことははっきりしている。全てを掘り返しても、何の成果もないだろう。こんなところに成果を残すような連中が、この都市の中を自由に動き回って殺戮を繰り返すなど、できるはずがない。

 まだ燃え尽きていない煙草を口の中に放り込む。

 咀嚼する。

 紙が外れて、刻んだ煙草が口内を満たす。

 感触だけがそのことを教えている。

 味は、ない。

 最後に味を味わったのは、いつだろうか。

 看護師がスポイトから落としたメロンの汁――。

 恐らくは、それが最後の味覚への刺激。

 恐らくは、それが味覚というものをまだ持っていた頃の最後の記憶。

 始めに、食器をよく落とすようになった。それから、身体が動かなくなるまで、それほど時間はかからなかった。病名が筋萎縮性側索硬化症であると知るまでには、かなりの時間が必要だった。東子の両親は善人だったからだ。自分たちの娘に不治の病であることを告げるために必要な覚悟をするまでに、本当に多くの時間が必要だったからだ。だから東子は、彼と彼女が、当事者が不治の病を受け入れるまでにどれだけの時間が必要か想像できなかったことを恨まなかった。

 筋萎縮性側索硬化症は脳と筋肉の間のコミュニケーションを阻害する。筋肉への指令が届かなくなる。そうして筋肉はゆっくりと痩せていく。

 しかしそれだけだ。この病はそれしか起こさない。どれだけ進行し、ついにTLSすなわちトータリィロックトインに至って、瞼の上げ下げさえできなくなったとしても、筋肉の、厳密には運動神経細胞以外の全ては健常なままなのだ。

 脳も。

 味覚も――。

 誤嚥を予防するために食道から下を切除した後も、味覚はあった。

 看護師が口を彼女の舌を引っ張り出し、スポイトからメロンの汁を落とす。

 ぽとっ、ぽとっ、ぽとっ、ぽとっ、ぽとっ、ぽとっ――。

 東子はメロンの味を味わう。メロンに付随した観念の連合が作動する。彼女は死にたいと思い、それを看護師と面会に来た両親に言って反応を見てみたいと思う。だが口が動かない。

 看護師が東子の後頭部を押す。首を曲げる。

 舌の表面からメロンの汁が流れて、別の看護師が差し出していた金属トレーに落ちていく。

「今日は貴女の誕生日よ」

「何か欲しい物はある?」

 娘を想う、一切の悪意なき、祝福されるべき問いかけ。

 看護師が東子の前に立って、透明なプラスチック製の文字盤を持つ。

 東子の眼球の動きが示す文字を、看護師が読み上げていく。

 キ、カ、イ、ノ、カ、ラ、ダ――。

 呼吸器以外も人工にしたいという東子の願いを聞いて、両親の顔色は今や大理石そのものと化す。

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