3-2-1-1 風にむかって唾を吐くのをやめろ

〈ソイレント・ホワイト〉以外に物を摂っていなかった彼女は始め、それが何をするための物なのかわからなかった。

「毒なんか入ってないぞ」

 ブーツのつま先が言った。聞き覚えのある声だった。

「ど――」四恩、声が出ない。

「入ってないって」何処かで聞いた声、もう一度、穏やかに。

「毒――!」四恩、声の出し方を思い出す。

「入ってないって!」何処かで聞いた声、苛立って。

 呼応して遠くから金切り声が朗唱を始める。

「『お前の魂のなかにあるのは、復讐だ。お前が噛めば、そこに黒いかさぶたができる。お前の毒は復讐心をそそぎこみ、人びとの魂をもの狂いにして踊らせる』!」

「いかれたガキばっかだ。うんざりする。奨学金が変動金利じゃなかったら、こんな仕事すぐ辞めてやるのに」

 ブーツを履いた男が四恩の両腋の下に手を通す。抱えあげる。壁際に座らせる。四恩はようやくトレーと、その上に置かれた幾つかの食器を風景から区別することに成功する。

「次の放水までに食べろよ。10分後だ」

「〈ソイレント・ホワイト〉は完全食――」

「だが釜石先生によると、人間は本能の壊れた生き物で文化というものが不可欠らしい」

 どうやらこの食事は〈137〉部隊研究部門の最高責任者である釜石透の神通力によって、ここまで誰にも没収されずに届いたらしい。

 ゆっくりと、四恩に背中を見せながら、男は独居房から出ていく。彼の足が完全に外へ出てから、彼女はトレーの上にあるものを眺める。食欲はない。食べようとは思わない。ただ中身を確認するために、蓋付きの木製の器へ手を伸ばす。蓋を取る。

 そこには味噌汁の代わりに折りたたまれた紙片が入っている。体液と〈ソイレント・ホワイト〉の混合液で粘つく指がそれを広げる。大きさは日本工業規格A4判。

 内容――銀行の預金通帳の明細。下の方にまだまだ余白がある。1年に1回の入金。悪性のインフレーションが進行するこの国では殆ど子どもの1年分の小遣い程度の額。まだ小遣いなど貰っている児童が存在すれば、の、は、な、し、だ、が――。一つの事実から遠ざかろうと連鎖していく観念の連合はしかし、繰り返し入力されている入金日の日付のために、何度でも振り出しに戻っていく。その日付は四宮四恩の誕生日と同じである――。

「終わったか? 終わったよな? 終わらせてろよ?」

 トレーを持ってきた男がトレーを持って帰る男になるべく、四恩の独居房に足を踏み入れるなり早口に尋ねた。

「始まる――」

「は?」

「始める――」

 は、は、はあああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――。

 彼のまさに眼球上で生じた突発的な閃光が彼の空間識を失調させた。上下左右すらわからなくなった彼にはもう自分の運動状態すらわかるはずがない。銃を抜くこともできない。

「『おお、人間たちよ、石のなかには像が眠っている。俺の思い描く像のなかの像が! ああ、その像が、なんとも硬く、なんとも醜い石のなかに眠っているとは!』」

 四恩、立ち上がって彼の腹を蹴り上げる。ボディーアーマーを突き抜けて、鳩尾に素足の先端が潜り込む。男が嘔吐する。

 かはーっ、かはーっ。

 その目に浮かんでいる涙は自分が知らずに飢えたライオンの世話をさせられたことへの絶望かも知れない。

「『その像を閉じこめている牢獄めがけて、いま俺のハンマーが怒りの鉄拳を猛然とふるいはじめた。石からは破片がほこりを立てて飛び散っている。だが、それがどうした?』」

 独居房を出る。歩いて、出る。鉄格子の向こう、閉じ込められた高度身体拡張者たちが四恩の姿を見て叫び出す。

「バカヤロー」

「頭を冷やせ」

「英雄気取りはよせ」

 その他諸々の罵倒や忠告や助言を聞いたが、四恩が聞き取ろうとしたのは次の声の主だけだった。

「『俺はその像を彫りあげるつもりだ。影が俺を訪ねてきたからだ。――あらゆる事物のなかでもっとも静かで、もっとも軽いものが、以前、俺を訪ねてきてくれたのだ!』」

 どの独居房にいるのかはすぐにわかった。既にわかっていた。

「会いたい人がいるから、出る、けど――、一緒に……来る?」

 殆ど雄叫びのような声で散文を暗唱していたのは、やはり地下の食堂で彼女に『マクベス』を聞かせてくれた少女だった。彼女は小さく頷いて肯定した。だから四恩はここまで持ってきていた男の指紋と虹彩とで彼女の独居房の扉を解錠した。

「わたし、は、四恩四恩。あなた――お名前は?」

「カムパネルラ」

 続けて直ちに、まるでそれが義務か何かであるように彼女は銀河ステーション、銀河ステーション! と叫んだ。

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