3-1-1-3

 寝、起き――。

 寝起きしているのかと言うと、それは怪しいと四恩は床を舐めながら思った。彼女は寝て、寝て、寝ていた。殆ど起き上がるということはなかった。そもそも、彼女の、そして彼女たちの房には家具というものはベッドすらもなく、房それ自体を一個の寝床として使うように想定されているのだった。

 食事は日に三度の、天井の通風孔から粒子状の完全食〈ソイレント・ホワイト〉が床まで吹き付けられるため、それを吸引するか、床に付着したそれを舐め取っていれば事足りた。トイレもないため、排尿排便も床に垂れ流しになるが、天井のスプリンクラーから〈ソイレント・ホワイト〉を洗い流すほどの勢いのあるシャワーが日に3回は噴き出すため、それでも問題はなかった。

 つまり今の四恩のように日がな一日床を舐めながら暮らしても何も問題はなく、それどころか房はそう暮らすように設計されていた。

 つまり、つまり――ここに来てから、起き上がった記憶が、――ない。

 それは必ずしも、この高度身体拡張者の地下寮で生権力が実現していること、常に寝続ける環境の整っていことに由来するものではないことを四恩は知っていた。

 知っていたからこそ、彼女はわざわざ、鉄格子の向こう側、自分を撮影し続けるカメラのレンズの方に頭を向けて寝ていたのだった。

 床と彼女の頬の間、床と彼女の着ている貫頭衣の間に挟まれて滞留する〈ソイレント・ホワイト〉とスプリンクラーから出てきた消毒液を潤滑剤にし、ゆっくりと、僅かに、後ろを、部屋の奥を見る。

 するとやはりそこには、ここに来た時と同様に、無の表情を浮かべた結城結乃と御厨水青と小林小町が立っているのだった。それは絶対に幽霊のはずなのだが、それにしては足まで生えていて、彼女は恐怖を覚えた。見ない、見ない、見ない――。もう二度と、見ない――。しかしどうしても、壁際に立った彼女たちが近づいてきているような兆候を見逃してはならないという義務感から、こうして時折、全身を滑らせて振り返り、その存在を確認するのだった。

 四恩は再び鉄格子の方へ頭を向けた。

「第2コリント!」

 叫び声が聞こえる。四恩と暗唱のセッションをした、あの声。それは四恩が冒険に行く直前、結城結乃の幽霊を見た食堂で会った少女の声だ。彼女はシェイクスピア作品だけではなく聖書も暗記しているようで、こうして章題を叫んでは暗唱を始めるということを繰り返していた。

「かくの如きは僞使徒また詭計の勞動人にして、己をキリストの使徒に扮へる者どもなり」

「これ珍しき事にあらず、サタンも己を光の御使に扮へば」

「その役者らが義の役者のごとく扮ふは大事にはあらず、彼等の終局はその業に適ふべし」

 微睡みが訪れる。唇についた〈ソイレント・ホワイト〉を舐め取る。彼女は目を閉じる。部屋の奥に立っている亡霊たちから逃れるために。

「あなたは生まれてこないほうが良かった」

 母の声。

「手羽先みたいな手だな」

 父の声。

 起きなきゃ――と四恩は思う。でも、部屋の奥には――?

 微睡みが深化し、意識を失う直前になって彼女は思い出す。夢の国で、父と母の手が彼女を肥溜めに沈めるということを、思い出す。どうしてこんなに直前にならないと思い出せないのかと思いながら思い出す。本当の眠気を、覚えたこと――が――あるかどうかはもう思い出せなくなっている。

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