2-2-9-1 四宮四恩に休息を

 腹に手を当てる。まだ温かい血液が掌に纏わりつく。両手の全体、甲にまで伸ばす。さらに手首へ。さらに前腕へ。表面積が増えたことで、紅は忽ちに乾いた。

 奥崎謙二が自分の血を見たのは実に久しぶりのことだった。それは常に彼の傍にあったどころか、常に彼の内部にあったのだ。そのことを彼はあの懐かしきアレッポの戦場の光景とともに思い出した。意識した。

 そして、何より、この痛み。

〈還相〉の絶え間なき肉体の再構築のために、銃槍はまだ血を吹き出している。

 ぴゅっぴゅっぴゅっぴゅっ――。

 痛みが去っては来て、来ては去っていく。

 その繰り返しもやはり、彼にあの愛おしき地獄を想起させる。

 血が出ている。血を止めたい。痛みがある。痛みを止めたい。そんな、まるで健常者のような、取るに足らない思考に意識の半ばまで支配されかけたのは、アレッポ以来のことだった。

 磁場を生成し操作することでアレッポの万人に対する万人の闘争を平定していた彼は、しかしアサド政権軍がアレッポに対して行った短距離弾道ミサイルの飽和攻撃を受けた。ミサイルは当時、ありとあらゆる国有財産を売っていたベネズエラから、彼を倒すために政権が買い占めた物だった。彼らは賭けに勝った。奥崎謙二はアレッポのリヴァイアサンとしての地位を追われた。そして彼は〈バーストゾーン〉に入った。入って、還ってきた。

 還ってきたのに、この有り様だ。

 ぶふっ――。

 全く細部までアレッポから逃げ出した時に近似しており、彼は思わず吹き出してしまった。

 アレッポをそうしたように、この渋谷も彼が完全に支配していた。今もその力は作動しており、彼に撤退のための道を確保している。だが、もう、完全なものではない。飽和攻撃を受けた――。

「『ロードローラーだっ!』。あはっ。『ロードローラーだっ!』。ははっ」

 四宮四恩の愛しき友人たちは、無数の短距離弾道ミサイルの代わりにロードローラーの1台で飽和攻撃を実現した。

 奥崎は戦場に長居したことを反省した。専門家は自分の仕事のクオリティのために休息をも奉仕させねばならない。その原則を忘れていた。四宮四恩に忘れさせられた――。既に投入された〈137〉の高度身体拡張者たちの能力を無効化し、四恩とあまりにも長く戯れ過ぎた彼には、ロードローラーの1台の投擲が飽和攻撃になった。

「『天下の難事は必ず易きよりおこり、天下の大事は必ず細なるよりおこる。夫れ軽がるしく諾するは必ず信寡なく、易しとすること多ければ必ず難きこと多し』」

 蟻の穴から堤も崩れる――。爆散したロードローラーの金属片から彼自身と四恩を守っている間に、あの日本では喪われた身体拡張技術〈獣化〉の被検体の少女が彼の腹に拳銃を押し付けていた。小気味よい音も、しっかり聞いた。

 たんったんったんったんったんったんっ――。

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