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 同時、彼女の引き裂かれた腹部から胸部にかけての皮膚と、そこから露出する傷めつけられた贓物とが膨張する。膨張して、弾ける。弾けて、飛ぶ。肉片と骨片と限りなく糞尿に近い汚物とが奥崎と四恩に降りかかる。

 それでも、その中の僅か一片、一滴すら、奥崎と四恩には届かない。それらは彼と彼女に触れる間際、白い光の鞭に叩き落とされていく。アレッポを唯一人で平定した〈高度身体拡張者〉奥崎謙一の能力が完全に機能していた。

 奥崎が四恩に注意を促すようにして、呟く。

「〈バーストゾーン〉……」

 肉と骨の霧の向こうで、小町は速やかに〈バーストゾーン〉へ、それも全面的に移行を開始する。その腹部は今、宿主の奪われた手足と贓物とを補償して、一個の捕食機関そのものと化している。肋骨が歯となり、千切れた大腸と小腸が舌となり、破れて胃液を垂れ流していた胃袋はそのまま巨大な消化器官となった。宿主の生命を可能な限り延命しようと、〈還相〉の論理回路が生命四十億年の進化の歴史をこの瞬きの間に遂行しているのだ。

 白んできた視界の中で、四恩は進化の歴史の圧縮を見た。そして、小町の腹に生成された、もう一つの口腔の桃色を眺めることでようやく、あることに気づいた。高度身体拡張者が〈バーストゾーン〉へ全面的に移行するのを見たのは、これが彼女の短くも長くもない人生で初めてのことだった。

「身体拡張者は還って来ることができない。でも、僕たち〈高度身体拡張者〉は還って来ることができる。僕は還ってきた」

 小町の腹から伸びた長く、複数ある舌が奥崎を捕らえようとするが、それは白い光の鞭の一振りで焼き払われていく。

 四恩はその光景を傍観している。彼の言っている意味がわからない。視界の白濁が強度の増し、白一色に染まりつつある。

「しのみや〜しのみや〜しのみや〜しのみや〜しのみや〜」

 そんな彼女を責めるように名前を繰り返したのは、小町だった。

「しのみや〜しのみや〜しのみや〜しのみや〜しのみや〜」

 濁った瞳、潰れた鼻、膨れ上がった唇、そのさらに下、ちょうど喉の所に真一文字に肉が裂けている。その割れ目が接着と分離を繰り返すrことで、小町は声を出している。

「しのみや〜しのみや〜しのみや〜しのみや〜しのみや〜」

「〈バーストゾーン〉に全面的に移行した身体拡張者とは、もうコミュニケーションを取ることはできない。できないと、されている。だからその殺害は正当化される。テロリストの殺害がそうして正当化されるように。しかし論理は、逆だ。そのことは四宮さんにもわかっているはずだ。テロリストが交渉不可能なのではなく、交渉不可能な敵をテロリストと呼んでいる。このことは身体拡張者についても同じだ。コミュニケーションの努力の断念が正当化されるような生成変化が起きた時に、その生起を〈バーストゾーン〉と呼んでいる。ところで――」

「しのみや〜しのみや〜しのみや〜しのみや〜しのみや〜」

「身体拡張者は明らかに人間を優先的に攻撃し、捕食するが、それが1つのメッセージだとしたら、どうだろう? この女の子が『しのみや〜』と繰り返すように、あるいは『しのみや〜』と繰り返せないからこそ、攻撃してくるのだとしたら?」

 奥崎の手が素早く動き、小町の舌の1つを逆に捕まえる。そのまま、それを小町の腹から引き抜く。ぶちぶち――。さらに1つ。さらに1つ。さらに1つ。ぶちぶち――。奥崎の手は小町の体内で作動する〈還相〉の再生能力を遥かに越えている。それで、すっかり彼女の新しい口は舌を失い、無防備な桃色を晒す。

「『鳥の血に悲しめど、魚の血に悲しまず、声あるものは幸いなり』」

 桃色が膨らむ。それは次の生成変化のための準備ではない。その内部にある脂肪が、奥崎の能力で発火したのだ。

「しののののののののののののののののののの――」

 炎は頭部に残っていた髪の毛へと拡がり、ついに小町の全身を舐め回すようにして焼き尽くす。

「おかあさ〜ん、おとうさ〜ん、そうた〜」

 火達磨がはっきりとした、しかし穏やかな声で、言った。「そうた」がボーイフレンドの名前なのか兄の名前なのか弟の名前なのかどういう漢字で書くのか、そんなことを四恩は考えた。そんなことを考えていなければ、燃え上がる少女を眼前にしながら、声の1つ出せない自分の存在をどうやって正当化するのか考えなければならないのだから。

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