2-2-7-4

 歯茎が溶け出す。沸騰した血液が歯を打ち出す。

 ぽーん。

 かーん。

 スマートレティーナが状況を淡々と記述する。視界の端に文字列を表示する。曰く「バーストゾーンの発生の可能性があります」。

 四恩は革手袋を嵌めた指で目の表面を掻き毟りたい衝動に駆られた。彼女はありったけの自制心で瞼を一度、強く閉じるに止めた。暗闇の上に「バーストゾーンの発生の可能性があります」の文字列が明滅した。

 ひぃおおおおおおおおおおお――。

 喉仏が1つの爆薬にでもなったような光景を、見た。ちょうどその部分の皮膚が内側から裂けた。そして、肉と骨と赤からピンクまでの体液を吹き出した。

 ひぃひぃおおおおおおお――

 その穴を補償したのは、彼の口内、歯の抜け落ちた歯茎から生成された、無数の触手だった。その蠕動運動は、彼の喉の穴を埋めただけではなく、ついに頭部全体を覆い尽くした。

 彼が前に一歩踏み出すのと同時、四恩も後ずさりした。本当に必要なのは後ずさりではなく、立ち上がって、彼の脇を抜けて、奥崎に今一度会うことだ。彼女はそのことを理解していたので自分の太腿を叩いてみた。何の反応もない。なるほど――。

 もう一歩、彼は足を踏み出す。けれども、次の一歩はなかった。彼は二足歩行ができなかった。そのためには、あまりにも頭部が重くなり過ぎていた。前のめりに昏倒。両手足を振り回す。畳の上で泳ぎの練習をする人は――きっと、こんな感じ――。

 小さく息を吐く。溜息ではない。安堵による溜息では、ない。自分に言い聞かせる。状況を作り出すのではなく、状況に完全に振り回されていることへの怒りを覚える。小さく息を吐く。怒りを抑える。それから、考える。どうやって移動しよう――。転がってみようか。あるいは、そう、赤ちゃんみたいに四つん這いで――。

 状況は、考える時間を用意しない。彼女の周囲では、彼女に与えられたダメージのために悪態をつく男たちが、もう立ち上がり始めている。

「この野郎……」

 野郎ではなく女郎だ、と四恩は思った。抗議の声は節約した。

「ぶちこ――」

 最もはっきりとした声を上げていた男の元へ、触手の群れが殺到する。その先端は銛のように鋭くなっている。

 触手が彼の全身を貫く。貫いて、持ち上げる。

 ぎぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいい――。

 悲鳴は、痛みのためか。あるいは、驚愕のためか。どちらもありえる。その両方ということも。

 彼の味方だったはずの者が、今やその頭部から触手を伸ばして彼に突き刺し、天上の存在に捧げる生贄の如く、彼を天井の近くにまで持ち上げているのだから。

 ぎぃ――。

 彼の悲鳴はすぐに途絶えた。さらにもう一群の触手が、彼の、もうすでに脱臼したであろう股関節を引き裂いて、彼の胸のあたりまで突き進んでいた。

 どうやら《還相》は、宿主の手足を頭部に合わせて再構成するよりも、触手を用いたほうが経済的であると判断したらしい。

《バーストゾーン》の発現もまた、質量保存の法則を超えるものでは決して、ない。その生成変化が、宿主の身体を分解して得られる以上の分子を要求するならば、普通、生き物がそうするように、何かを殺し、その身体をこそ分解しなくてはならない。

「仲間殺しはご法度だろうが田川あああああああ!」

 田川という名前の人、田川さん、下の名前は何だろうと、今一番どうでも良い知識を反芻しながら、四恩は田川氏がかつての仲間の血液のシャワーを浴びる様を眺めた。眺める他にはなかった。

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