2-2-6 奥崎謙一は動く、四宮四恩は動かない
四宮四恩は動かない――。
奥崎は独りでホールを出ることになる。
失われた青春を補償するために彼女を口説いてはみたが、ものの見事に失敗した。それでも、彼の口角は上がっていた。釣り、上がっていた。彼女の自発性など、どうでも良かった。自発性など――。そんなものは、糞だ。彼は彼女の進むべき道を確信していた。だから、ホールに5人の男たちを残し、殺戮よりも優先すべきものを指示した。
廊下を進む。
声を出して笑いそうになる。思いとどまる。事態は全て、彼の思う通りに進行していた。四宮さん――。彼女は彼の依存を指摘した。奥崎謙一は鳥巣二郎なしに、存在しえないと――。
それは、なるほど正しいのかも知れなかった。知れなかったが、ただ、この今にだけ妥当する指摘だ。彼の未来は開けていた。
「『魚の水をゆくに、ゆけども水のきはなく』」
既にホールの内部で奥崎は公会堂の外で拡大していく闘争領域の喧騒を味わっていた。硝煙の、汗の、血の、糞尿の臭いをすら。事態は、全て、彼の思う通りに進行している。その証として――正面玄関への距離が小さくなるごとに、自己増殖する戦争の音と香りとが強くなっていく。
「『鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし』」
公会堂から始まった戦いは、公会堂を台風の目としていた。ホールから廊下、廊下から正面玄関まで、彼は死んだ人間をしか見なかった。その周囲であまりにも大規模な殺戮が繰り広げられているため、誰もここに、近づけないのだ。実はここが一番安全だなんて、誰も、頭の片隅にすら思っていないだろうな、と奥崎は思った。
戦場が――そうだ! 需要を求め、選ぶべき戦場が奥崎の眼前に広々と横たわっていた。外の喧騒とは対照的に静寂を保つ正面玄関から、彼は外の様子を眺めた。
「『鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す』」
まず目に入ったのは、渋谷公会堂の向かい側――NHKホールの建物だった。あるいは建物だった物体だった。国営放送局の建物は燃え上がり、煙を噴き上げていた。ビルの窓という窓から放送機材が投げ出されていた。それから、大合唱を聞いた。
ますごみますごみますごみますごみますごみますごみますごみますごみますごみますごみますごみ――! ますごまうすすすすすすますますますごみごみごみごみ――!
いよいよ窓から人が放り投げられ始めたのを見ながら、奥崎は渋谷公会堂を出る。左折する。そこには2.26事件慰霊碑がある。彼はそこで伝令の到着を待つことになっている。だが、そこには、NHKの放送局を襲撃した人々と同様に、彼がリクルートした覚えのない青年が立っている。細長い身体と綺麗な手指はとても兵士には見えない。絶対に、リクルートしたことはないと奥崎は思う。
彼はその手に前時代的なハンディカメラを持っている。NHKの惨状を撮影しつつ、早口に独りで喋っている。
「えー、あのー、チャンネル登録お願いします。チャンネル登録ですね、お願いします。今ですね、反日放送局がですね、燃えています。SNSアカウントではなくて、物理的にですね、燃えています。えー、チャンネル登録お願いします。共有お願いします。えー、こちらは真実情報発信チャンネルです。登録お願いします。投銭お願いします」
彼はどうやらインターネットでこの状況を放送しているらしいということを、奥崎は理解した。奥崎は機嫌が良かったので、彼が奥崎へとカメラを向けようとした、その直前に、彼の腕を捻り上げてへし折った。
「えー、あのー、腕が折れました。腕が折れています。治療費の投銭お願いします」
奥崎は彼の放送への情熱に敬意を評したいと思った。彼からカメラを取り上げる。彼の膝へ爪先を突き刺し、その脚を捻じ曲げる。地面に転がす。いよいよ彼は悲鳴を上げる。その腹を踏む。踏み抜く。彼の血と内蔵の噴水を、奥崎は撮影した。いくら「ネットは広大だ」とはいえ、九相図の放送は、そう多くないだろう。奥崎は、彼が自分の血液で嗽する様子を接写で撮影する。
ごぼごぼごぼごぼごごげぼぼげえげげげげえげぇげげげげえげごぼごぼごぼごぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ――。
「『
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