2-2-5-8
差し出された手。細く長い腕の末端。記憶の螺旋階段が足元で口を開き、四恩はそこを駆け下りていく。この世界の全てに対する恐怖を、この世界の全ての対する好奇心へ変えてくれた手が、今、恐怖に駆り立てられて単独任務を行う、この今、再び、彼女の前に現れた。
「一緒に――いく――ことを――わたしは――」
四恩は、新たな句を続けることで、否定か肯定かを無限に留保し続ける事のできる日本語の構造に感謝した。
自由、自由、自由――! もう何者にも脅かされることのない、自由な世界への入口が奥崎謙一として、四恩の前に顕現していた。彼女は自分の望んでいた物をあらためて考えようとした。自由は単に言葉であり、それはさらに何事かを指し示しているはずだったから。この単独捜査の始まりを思い出す。
優等生としての地位を失い、水青と結乃、そして奥崎の亡霊を見た。優等生の地位を回復する必要があった。生きているように見える者を生まれる前の世界へと還し、死んでいるように見える者が生きていることを示す必要があった。だから四恩は、奪われることの確実となった寮の最上階の角部屋に引き篭もっているわけにはいかなくなった。だから四恩は、単独捜査を始めた。しかし、その目的もまた、さらに上位の目的に支えられているはずだ。優等生としての地位を保持することの目的は―—、高校に行くことだ。高校に行くことの目的は―—、大学へ行くこと。大学へ行くことの目的は、就職すること。就職することの目的は――自活――? ――? 体内に正体不明の分子機械を巡らせながら――。絶えず〈還相抑制剤〉の投与を乞いながら――。
あはっ。
奥崎が、小さく息を吐いた。それは明らかに、笑いゆえの吐息だった。四恩もつられて、同じことをした。彼は、彼女のために、予め笑っておいてくれたのだ。
「『世界が、――そうだ、安住の地を求め選ぶべき世界が、今や彼らの眼前に広々と横たわっていた。そして、摂理が彼らの導き手であった』。」
彼が何から引用しているのか、四恩は完璧に思い出すことができた。それは、ミルトンの『失楽園』の結末部分だ。糊付けが怪しくなり、崩壊も間近な岩波文庫を、彼と彼女は読んだのだった。
「二人は――、『二人は手に手をとって、漂泊の足どりも緩やかに』――『エデンを通って、二人だけの』――」
ぶううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう――。
四恩の声を掻き消すようにして、その銃声は轟いた。彼女は、それがこのホールにあるどの銃火器によっても出すことのできない音であることを理解した。
ホールの出入口の、さらに向こう、正面玄関にまで続いているはずの廊下から、銃弾の群れが奥崎を目指して突撃していく。続けて、声が響く。四恩は後退する間もない。
〈四恩ちゃん、ぼくたちの目標は彼じゃないって打ち合わせたはずだよ〉
振動幅が少ないスピーカーを利用しているためか、その声は酷く音割れしていたが、それでもなお確かに水晶のように透き通った性質を保っていた。
三島三縁のクリスタルボイスは砕けない。
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