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 池袋や新宿の、中心街から遠く離れた住宅を彼女たちは訪ね歩いた。訪ねるべき家は、少なかった。候補は絞られていた。テロ事件の実行犯となり射殺されていたことによって。彼女たちは玄関ドアを叩き、時には叩き破って、彼らの家を訪問した。彼らはことごとく自殺――していた。

「もうアレッポ帰りの人たちに招集をかける必要もなくなったからね。いや、かけるべきではなくなった。今日の目標を教えたら、彼らと僕こそが戦闘状態に入っていたかも知れない」

 奥崎と一緒に、舞台を見る。彼の言っていることを理解していると示すために。

「あの人は、反粛軍派の有名人だからね」

 そこで四恩と東子は、磐音に出会った。彼女は大麻が解禁された社会の麻薬取締官であり、〈還相抑制剤〉を不法に供給する者を、それを受け取った者たちを追うことで追っていた。彼らの中でも、アレッポからの帰還兵かつ身体拡張者たちが尽く、テロ事件への参加と自殺のために消えてなくなったからには、もう、追うべきものは決まっていた。残りのグループを監視するだけで良かった。

 そして、彼らは動き出した。ご丁寧にも公共交通機関を使って、彼らはここ、渋谷公会堂の周辺に集結した。

 だから、四恩はこの国のどの組織、どの捜査官よりも速く奥崎謙一に辿り着いた――。

「良かった。本当に、良かった。迎えに行く手間が省けた。四宮さん、僕と一緒に、自由な世界へ行こう?」

 奥崎の白い手が四恩の革手袋に包まれた手をとった。四恩は、彼が水青と結乃を殺し、四恩を窓際族にまで追いやった敵対者、追跡対象、そして何よりも大量殺人鬼であることを思い出した。

「この手は何でもできる、魔法の手……。君を自由にする……」

 革細工の上から、奥崎が四恩の手の甲で親指を滑らせる。擦過音がさらなる想起を呼び起こす。記憶の鎖は、彼女が初めて、手を獲得した時の恐怖にまで繋がっていた。そしてその恐怖が、奥崎によって打ち払われたことにまで。

 全身麻酔中に〈還相〉を投与され、覚醒した時には既に、一度も感覚したことのない存在を四恩は感覚していた。感覚させられていた。手、足――。身体はそれらの指先にまで血液を供給していたが、彼女の意識はそれらを拒絶した。猛烈な離人感のために、呼吸の方法すら忘却していた四恩の手を、今のこの時のように、奥崎は取ったのだった。あの時も、同じことを言っていた。

(この手は何でもできる、魔法の手……。君を自由にする……)

 それで、彼女の手は膝の上から、奥崎と彼女の顔の間にまで持ち上げられてしまった。デジャヴの訪れ。忌避すべき来訪。だが、四恩は深く息を吐いた。奥崎は四恩の同意を得て、その手の甲に小さく接吻した。それこそが完璧なトランキライザー。彼女の意識は、まだ誰も死んでいない、これからただ明るい未来が開けているだけの、あの瞬間にまで回帰する。奥崎は引き続き、彼女の魔法の手を祝福すべく、接吻を続けていく。上腕、肩――。

「この足は何でもできる、魔法の足……。君は大地を継承する……」

 四恩の太腿の裏に手を通した奥崎は、今度は彼女の膝に接吻する。

(貴女に永遠の忠誠を誓います)

 膝から、唇が離れていく。名残惜しんだ皮膚が、甘い湿度を残していく。それらは空気へ発散し、甘い温度になるだろう。だが、それを味わう直前に、彼女は股の裏を通り抜けた奥崎の手の軌跡による電気に打たれてしまう。

 四恩の存在それ自体を祝福すべく、奥崎の顔は四恩の顔に近づいていく。背骨を甘く噛んだ電流の余韻に耽りつつ、彼女は目を閉じる。

 だが、それが失敗。奇跡の時間の終わり。無垢なる時間の終わり。

 目は閉じられても、鼻は閉じることができない。人間には、鼻蓋がない――。四恩は奥崎の臭いを、感じる。血と硝煙。現在の過去が消え去って、彼女は現在の現在との同期を回復する。動悸が、ある。それと爆音。それと悲鳴。それと銃声。それと怒声。

 目を開ける。ゆっくり、と。間近にある奥崎の顔。

 チェシャ、猫の、――笑み。

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