2-2-5-1 社会の戦争

 小さくなっていく、呻き声。濃くなっていく、血の臭い。死だ。死が、生物を静物に置換している。その絶え間ない運動の、ちょうど中心が、渋谷公会堂のコンサート・ホールだった。他に誰も座る者のない中、四恩は奥崎謙一と並んで、その座席に着いていた。

 2015年に一度、この渋谷公会堂は閉鎖され、更地にした上で新生渋谷公会堂が2019年に建築された。しかしこの有様では再び閉鎖と建築が必要だろうと、四恩は思った。

 コンサート・ホールの内部が静寂に満たされていくに及んで、その外部ではいよいよ銃声と怒声とが響き渡りつつあった。それは間違いなく、明日には「渋谷無差別テロ事件」と呼ばれるであろう事件が、最も緊迫した状況を目指してボルテージを高めていく過程であり、終わりの始まりの音楽だ。

 四恩の両肩に優しく手を置きつつ、しかし強い力で彼女を着席させた奥崎謙一は、彼女を座らせるとすぐ自分もその横に座った。それから、目を閉じて、その端正な顔を天井に向けた。

〈ぼくたちの今の装備では、彼を捕まえることはできない〉

 珍しく低い声の三縁に、四恩は奥崎の指の強さにショックを受けていた自分を観察する冷静さを取り戻した。

〈逃げよう。戦略的撤退だ。それよりも、彼にこの監視社会での自由通行許可証を与えた、あのアイデンティティ不明の中年男性を追うべきだ〉

 ありえる――ベターな――判断。チェシャ猫の笑みを浮かべた鳥巣二郎博士の顔を思い出す。その顔をスマートレティーナでデータベースに照合した時の現象を思い出す。高度身体拡張者の少女と、全身を機械化された少女とその手に持った銃口とに狙われながら、あの男は笑みを崩さなかった。そして、見た。わたしを――。

 四恩のスマートレティーナがどういう動作をしていたのか、彼は正確に把握していたのだろう。表示される、出鱈目なパーソナルデータ、プロフィール。それはあの男の瞬きのたびに変更され、彼がこのホールを出ていく時には、いよいよ四恩がまだ生まれる前、一定匿名性が保たれていた時のソーシャル・ネットワーキング・サービス上のアカウント名を思わせる名前さえ表示されるようになっていた――。

「『意志的な選択でもなく、周到な「マス・コントロール」でもなく、私たちの有限性による非意味的な切断が、新しい出来事のトリガーになる』……」

 唱えるようにして、奥崎が言った。直後、四恩の耳を久方ぶりに無音が満たした。あるいは、それは静寂による痛み。唾液を飲み込んだ音が自分の頭蓋で反響するのを、四恩は聞いた。三縁との無線通信が切断されていた。

 奥崎はまだ、目を閉じたまま。天井に顔を向けたまま。微笑しているようにも見える。穏やかな、寝顔にさえ見える。四恩は天井に話しかけられることを忌避して、前方、舞台を見る。酸化した血液と、脳漿と、裂けた腹部から飛び出した大腸から飛び出す水分を抜かれた糞便に、そこは黒く染め上げられていた。

 その黒が、四恩の腹に黒いものを導く。あるいは、幼稚な企図。幻影。――今なら、彼を捕まえることが、できる――。

 ほんの一瞬、そう思っただけのことで、ただちにイメージの連合が四恩の頭に流れ込む。あらゆる物質で反射し、屈折し、しかしなお直線を維持しながら彼女の全身へと殺到し、さらにまた、彼女の全身で反射し、屈折する光の束の――イメージ。その殺到が、彼女のその他の感覚器官に入力される信号を意識の彼方へと追いやる。彼女は今や、操作できる対象として、光線を見ている。拡張された認識が、掻き集めることのできるエネルギーの総量を彼女に啓示する。彼女は奥崎謙一を戦闘不能にすることができると――夢想する。

「君はこの非正規の任務に従事する許可と引き換えに、大量の〈還相〉抑制剤を投与されている。忘れないで」

 奥崎はまだ目を閉じたまま。足を組む。いよいよ昼寝の様相。だが四恩への警告と牽制だけは、彼は決して忘れていなかった。

〈還相〉抑制剤の機能は、単に〈バーストゾーン〉を遠ざけるだけではない。というよりも、〈バーストゾーン〉は〈還相〉によって発現する身体の機能と構造の必然的な結果であり、〈還相〉を投与された〈身体拡張者〉は常に〈バーストゾーン〉を志向しているとも言いかえうる。正常と異常の境界はデジタルには存在せず、それはスペクトラム、連続したものとして存在する。だから〈還相〉抑制剤は、〈身体拡張者〉がその能力を発動しようとしたならば、その程度に合わせて、身体に拒否反応を惹起させる。具体的には血中酸素濃度の低下による――嘔吐、頭痛、動悸、呼吸困難等々。

「四宮さん、どうやってここに辿り着いたの?」

「奥崎くんは――」

 四恩がそう言って、ようやく、奥崎は彼女の方を見た。その服に染み付いた血痕の数多と硝煙の臭いがあってなお、拡大していく殺戮の現場の中にあってなお、彼の顔は――車椅子の上で無意味な反省と懺悔をしていた四恩を助けにきた時の、あの時の顔と同じ穏やかさを保っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る