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 彼女の眼前にいる男、鳥巣二郎という男は、奥崎謙一がそうであるように、この社会のセキュリティ全体の失敗を証す者であり、彼女の恐怖も、奥崎には理解できた。もしもそんな者がいれば、それは自由への道に他ならないからだ。人間ならば喉から手を出すほどに渇望する、自由への――。奴隷ならば、口に出すのも躊躇うほどに恐怖する自由への――。だから、この女は奴隷に違いない。奥崎は思った。この女は哀れな羊だ。奴隷であることを自覚できていない、最悪の奴隷だ。奴隷は、僕の敵ではない。敵対するに値するものでは、ない。

 彼女から目を離す。四恩を見る。四恩もまた、階段を降りてきていたが、奥崎と目が合うと、その場に立ち止まった。

「奥崎、く、ん――」

 さすが、四宮四恩はデータベースのレスポンスではなく、真実を見ていた。彼女のスマートレティーナにもまた、奥崎謙一ではなく、この会場に入ることが許されている誰かのプロフィールが表示されているはずだった。だが、四宮四恩は奥崎の名を呼んだ。そのことが彼には嬉しかった。

「四宮さん」

 し、の、み、や、さ、ん。その舌の動きに高揚する自分を認める。

 遥か無窮の国の砂漠の街で、同じように舌を動かしたことを、奥崎は思い出す。

「生きて、いたの――? いるの――?」

「生きていた。生きている。生きていく。君は?」

「わたしは――」

 主語だけ言って、床に目を伏せる。あの頃と、何も変わっていない。まだ手も、足もなかった少女の頃と。その時から、四恩は、言葉の重さに耐えかねて、口籠り、沈黙する少女だった。それは、言葉によって両親の行動を促し、そうして生きるより他にはなく、ついに捨てられた少女には自然な発話態度であるように、奥崎には思えた。

 だから奥崎も、あの頃と傾聴の態度を変えたくはなかった。次の言葉を急かさない。じっくりと、待つ。そういう態度を。しかし、状況が状況を作り出していく、この今は――。

「僕と一緒に行こうよ。自由になれるよ」

 言いながら、奥崎は押し寄せるイメージを味わっていた。身体の拡張は、そのまま認識の拡張を齎す。言葉を割り当てていくことで、区別し、指し示す。イメージの荒波を統御する。

 世界が、その最小の単位に還元されていく、イメージ。

 極微小の球体の数々が出会い、別れ、世界を生成している、イメージ。

 きっとこれを、デモクリトスも視たに違いないという、イメージ。

 それらの球体の出会いと別れを司る、〈強い力〉、〈弱い力〉、〈重力〉、そして〈電磁力〉――のイメージ。

 奥崎はただ、その一つに干渉するだけで良かった。腕を動かして、物を押すように。球体の群れに、新しい力を加えるだけで良かった。

 手を振り上げる。

 白い光が身体の中を駆け巡る、イメージ。それは靴の底から抜けていき、短髪の少女の身体にまで刹那の間に到着。少女、小さな悲鳴を上げる。彼女に、その場で腹ばいになるように要求されていた鳥巣博士が、今や少女を見下ろしている。

「複雑な機械は不測の事態に脆弱だね。あるいはトリヴィアルなマシンには、現実は複雑過ぎるのかな」

「待て――!」

 立ち去ろうとする博士へ、四恩が目の前の椅子を蹴飛ばす。サッカーボールキック。見事、と奥崎は思う。椅子と床は袂を分かち、椅子は自由の身となって博士を目指す――前に、奥崎がそれを片手で止めた。

「奥、崎、くん――! わたしは――!」

「彼女の身体の中を見たよ。脳以外は機械なんだね、彼女。何らかの補償機能が働いているから、しばらくは大丈夫だろうけど、このままじゃ間違いなく死ぬ。人工肺も人工心臓も止めたから。四宮さん、伏兵を呼び出して彼女を回収させるんだ。博士を追うのはやめて。それより、ここで、2人で話そう。将来のこととか」

 四恩、奥崎を睨んでいる。なんという再会だ、と彼は思う。彼女を落ち着かせるために座席を勧めるが、動かない。そうして険しい顔と穏やかな顔とが相対する間に、ウェーブのかかった髪を揺らす涙目の少女が短髪の少女を抱えて、ホールを出ていった。

 

 

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