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「私の所にも来たのよ、彼。彼女の所にも」
溶け出した氷とアイスコーヒーを啜りながら、四恩は頷いた。
「わたくしより少し上の人に、アレッポ帰りの軍人のスキャンダルだからって」
「大したことないわよ。〈還相抑制剤〉の横流し、それ自体は何でもないこと。よくあること。お腹を空かせた人たちに食料庫の番をさせるのが、そもそもの間違いだわ」
「そう、よくあることだったのです。そんなよくあることを根拠に、わざわざ藪を突くようなこと、普通はしないのですけど。それでも――」
「配り歩いているのが身内だったら」
「身内であり、しかも有名人。倉庫番が倉庫の中身を掠め取っている、くらいの話だったらまだしも、もうこうなったら組織的犯行じゃないのかしらって」
組織的犯行ではなく、巨大な陰謀の一端じゃないのかしらって、と本来は言うべきだろう、と四恩は思った。それこそ、四恩が精神状態を疑われたような水準の陰謀の可能性を磐音は考えてしまったのだ。しかし、その疑念にも一定、合理性がある。あの〈三博士〉の1人である鳥巣二郎が、厚生労働省の審議委員を離れて、ただの一介の〈博士〉になっているはずの彼が、正規品の〈還相抑制剤〉を自由に所持及び処分しているとするならば。死んだはずの奥崎謙一が、この日本列島で自由に行動し、それだけではなく「テロ攻撃」をさえ実行していると主張している四恩には、その合理性を認めざるをえない。
「それで、貴女に白羽の矢が立ったわけね?」
東子の喜色満面の笑み。机の上で、口から離した煙草を揺らす。
「貴女、それ、完全に退職勧奨よ」
「退職勧奨……? なんです、それ?」
「まだこの国に労働基準法とか正規雇用なんて言葉があった頃――」
「自分から辞めたくなる、ような、仕事をさせる――こと」
東子が三縁直伝の知識を披瀝する前に、四恩は言った。告知は短く為されるべきである、と彼女は今に至ってようやく確信した。
「だって、その人も鳥巣二郎であって鳥巣二郎ではないわけでしょう?」
「はい」と汗だくグラスを目をやりながら、磐音は答える。
四恩は冷や汗をかき始める。三縁は歌うように〈今度の『操作』は東子に一任しても良さそうだね〉と言う。彼女は闘争領域のルールを学ぶ。
「お顔だけですの……。お顔だけは肉眼で見る限り間違いなく鳥巣博士のものなのですけど、IDはいつも違うの。だから都市中に張り巡らされたセキュリティのためのテクノロジーも全然、無意味で。同じ顔なのに、顔面画像データベースと照合すると毎回、違う人のプロフィールが示される」
「それで貴女は、アレッポからの帰還兵でここ最近の通院記録のない連中に貼り付いたりしていたのね?」
視界の端に東子の親指だけを立てた拳が見えた。四恩はそのジェスチャーの意味を知っている。知っているので、ストローで空になったグラスの底を繰り返し叩いて気づかないふりをした。
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