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地下室へ降りてくる痩身の男。手にトレー。トレーの上にグラス。グラスの中にはアイスコーヒー。四恩、待ち望んでいたものを見る。自然、磐音の目が細くなっていくのを見る。磐音が机の表面を人差し指で撫でながら言った。
「ねぇ店長、ここでは何をしているのでしたっけ。どうか、もう一度、貴方の口から聞かせてくださいませ」
「どうしても、ですか」
コースターを置きながら。
「いいから言え」
低い声でそう命じながら、新しい煙草に火を点ける磐音。
「〈絶対生き延び新しい生活〉会議、です」
あはははっ。磐音の乾いた笑い声。続けて「生き延びっ、生き延びっ」という独り言。顔を見合わせる四恩と東子。
〈第2次システム理論が始まったのは、君が生まれるずっと前、ぼくすらもがまだ生まれていない頃。1970年代のこと。チリの生物学者、ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラは鳩の網膜を研究する内に、その反応がとてもではないが外界からの刺激と一対一に対応しているとは言えないと気づいてしまった。生物が非トリヴィアルなマシンであるということに気づいてしまった。彼らは生命システムがオートポイエティックなシステムであると主張した〉
三縁はシステム理論講義を続けているが、それよりも磐音の打って変わった楽しそうな様子の理由こそ、講義して欲しいと四恩は思った。
「続けてくださいな」
「〈絶対生き延び新しい生活方法〉会議は、私が、終身雇用・年功序列賃金の崩壊した現代日本で絶対に生き延びることのできる新しい生活の方法をプレゼンテーションし、あるいはコンサルティングし、少額の報酬を頂戴する場であります」
「それで、その『新しい生活方法』の『新しさ』の根拠は?」
「私の生活そのものであります」
「その生活の成り立たせているのは?」
「『新しい生活方法』のプレゼンテーションとコンサルティングであります」
ぶふっ。磐音がストローで啜っていたアイスコーヒーを小さく吹き出した。
「それじゃ、まるっきりネズミ講じゃありませんの。店長、あれをやってくださらない? 会議終了時の掛け声。四恩さん、東子、聞いてくださいね。これ、本当に面白いのよ」
「生き延びっ、生き延びっ」
店長が天井を見ながら叫ぶと、三縁の講義までもが中断された。地下室の気温が2度も3度も下がったように四恩には感じられた。沈黙の重苦しさに店長が顔を下げた。
「プチブルの豚さん、わたくしとわたくしのお友達のお洋服が汚れてるのが見えないの? 店長、『生き延び』よ、生き延び。すぐに替えの服を持ってきて」
店長なる人物は深々と頭を下げると駆け足で階段を上がっていった。四恩は今一度、東子を見たが、その顔に貼り付いていたのはただ苦虫を噛み潰したような表情だった。
あー、面白かった。磐音は平坦な声で、全く面白くなさそうに呟いた。
「ねぇ、東子、わたくしたちが白衣の大人たちに裸を凝視されている頃って、あんなのが無数にいましたわよね。まだインターネットの使用について今みたいに年収要件がなかったから。覚えていて?」
「そうだったかも知れないわね。仕事の話をしない?」
「お仕事のお話ですわ、これも。そもそも仕事の話とやらを区別して指し示すことを可能にするような、仕事以外の『生活』がないでしょう、わたくしたちには。四恩さん――」
ストローの内部をアイスコーヒーと空気で交互に満たす遊びに興じるのをやめる。磐音と目が合う。四恩は今こそシステム理論講義を大ボリュームで再開して欲しいと思う。
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