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 そして、結局、四恩は東池袋の賃貸住宅に押し入ることを選んだのだった。あの時の三縁の楽しそうな声音ときたら――。他人を操作することに躊躇がない。身体が、ない、から。それでは手足のなかったわたしは――。

「前がいい? 後ろ?」

 辿り着いたアパートの一室。東子がドアのすぐ脇に立っている。手には拳銃。突入に向けて待機中。露出した片方の八重歯――実に楽しそうな表情。

 組織的支援もなければ、時間もない。個人的推論に基づいて、自ら状況を作り出していくより他には、ない。

「ま、え」

 四恩は高度身体拡張者の優秀な肉の盾としての特性を思い出して、そう言った。

「『行けよ、ポイントマン』」

 これ言ってみたかったのよ! と高い声で東子が叫ぶのを聞きながら、四恩は鋼鉄製の扉をエナメル靴の底で蹴った。

 扉のすぐ後ろに目標がいたら――そもそも、勝手に部屋に上がり込んで、なんと言うべき――?

〈《警察じゃけぇ、何をしてもええんじゃ》〉

 三縁が低い声で、しかし些か迫力に欠ける声で言った。けれども、わたしたちは警察では――な、い。

 少女の細脚の一蹴りも、〈還相〉が機能しているならば、鋼鉄製の扉を歪ませ、建具との幸福な連帯を壊すことになる。結果、ドアが1枚の金属板となってアパートの狭い廊下を進んでいく。廊下の終わりを示していたアコーディオンカーテンを巻き込んで、その板はベランダにまで届いた。

 窓ガラスの割れる音と――異臭。

 この鼻孔の刺激を、四恩は何度も経験したことがある。

 間違いなく――死臭。

「加減てものを知らないのね。若い子って怖いわ」

 十代後半の少女が怖がる「若さ」、とは。

 首をひねりつつ、部屋の中へ。玄関に置かれた、黄ばんだスニーカー、踵の壊れた革靴、土埃まみれのサンダル。日本の住居は基本的に靴を脱いであがるものなのだということを、四恩は思い出す。緊急事態につき、靴を踏みつけつつ、そのまま廊下へ。

 ウサギ小屋とも形容できる狭い和室で死の香りが凝縮されている。それは四恩の鼻の中、口の中にまで押し寄せる。嗅ぎなれた臭い。味わい尽くした酸味。

 部屋の主は、壁に背を預けて座っていた。もう今ではすっかり乾いて黒くなった血液の河は床から彼の側頭部にまで辿ることができた。その右手に拳銃。何よりも、彼の自殺を示すもの――側頭部の異常な隆起――宿主を可能な限り死から遠ざけようという〈還相〉の涙ぐましい努力の形跡。

「あら、マカロフ」

 東子がロシア系の友人の名でも言うように言った。死体の硬直した指から強引に拳銃を取り上げる。

「現場の――」保存、と言う前に東子はもう拳銃に興味を失い、またも強引にそれへ死体の指を絡みつかせている。

「神経質ね。取り締まりも捜査も、比例の原則が働くのよ。資源は有限だもの。保存も何もないわよ、こんな、よくあること」

 自動運転及び電気自動車の技術の分野でシリコンバレー系資本が勝利を収め、また産業構造のドラスティックな転換により製造業が軒並み海外へ生産拠点を移すに及び、日本国の自殺者数はここ数年5万人のまま高止まりしている。

「でも――」

〈彼は身体拡張者だよ、東子。それも三ヶ月も通院記録のない〉

「自殺は、難しい、わたし――たちには」

 今ならできるかも、という言葉を飲み込む。言う必要のないこと。

「私もプリインストールされてる射撃制御ソフトのせいで自分の頭は撃てない」

 言いながら、八重歯を見せる東子。四恩、返事の仕方がわからず、無言で死体の衣服のポケットというポケットを触る、手を入れる、そして掴んだ――複数枚の、錠剤のシート。その分厚い束を纏めているのは、劣化した輪ゴムの一周だけで――弾ける音、飛んでいく輪ゴム。それから、東子の「現場の……」という似ていて欲しくない物真似。

 床に散らばったシートを見る。直ちに三縁が詳細な情報を視界へと重ねていく。

〈還相抑制剤だね。でも錠剤だ。専門家のご意見をお願いします〉

「わたしは、研究者、ではなく研究対象――」

〈還相抑制剤〉にもバリエーションは、ある。当然だ。それ自体が戦場を行く兵士に配られる慰安のための薬物の、バリエーションなのだから。とはいえ、最もポピュラーなのは注射という方法による投与であり、そしてそれが最も効果的であるはず。であると、されているはず――。〈還相抑制剤〉そのものが、〈還相〉と免疫システムの構造的カップリングを保つための、ただの時間稼ぎに過ぎないにせよ、このような錠剤は――そう、戦場に出たため医療施設に行けない場合の、時間稼ぎ。

 しかし奇妙なのは――専門家の意見を、四恩は言った。

「こんなに貯め込むことは――できない。無から、生じた?」

「無は定義上、何も生じないわ。このマカロフや、あのカラシニコフと一緒に供給している連中がいるんでしょう」

「それに――」

〈気づいてた?〉

 網膜とスマートレティーナの重なりの上、それにさらに重なるようにして、イメージが流れ込んでくる――観察の観察が作動する。

 誰かが、わたしを、わたしたちを見ている。

 

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