2-2-1-1 東堂東子
第2次大戦によって生じた巨大な焼け野原、その後の高度経済成長、そしてその間一貫して続いた人口増加によって住宅の取得が事実上の国民的権利にまで高まり、住宅金融支援機構が低利の融資を行っていたのは、四恩が生まれるずっと前のことだ。
国債価格の大規模な下落と金利の暴騰、それから何よりも少子化と高齢化が住宅供給政策を根本から変えてしまった。
かくして、日本の住宅街に残されたのは、取り壊すと税制上不利になるため放置された家屋と、家主が取り壊し費用を用意できないため放置された家屋ばかりになった。
空き家、空き家、空き家――。
入居者募集! と描かれた錆びた看板――。
そんなものばかりに、なった。
四恩は自分のことを世事に疎いと思ったことはなかった。知識ならば、入念に、大量に、注入されていた。〈137〉では、日中、多くの座学が用意されていた。そこでは日本経済史についても学習させられていた。初等教育から最高学府まで「実務重視教育」「人間力教育」が導入され、人文科学系分野の教育が全般的に廃棄されて久しい日本だが、〈137〉は例外であり、多くの失業した人文科学系大学教員の受け入れ先になっている。〈137〉では、古いディストピア小説が想像してきたような「愛国教育」は行われていない。高度身体拡張者の少女たちに必要な教育は、国家による包摂についての幻想ではなく、機能分化した近代社会の各システムが排除によって統合されている、その冷厳たる事実であり、〈137〉の外では生きられないという確信なのだ、と大人たちは判断したのだろう。
とはいえ、一歩、また一歩と歩を進めるごとに四恩が理解したのは自分が〈137〉の外について何もわかっていないということだった。
四恩は今、東京特別区は豊島区の、東池袋を歩いている。
街を歩く。そんな単純なことさえ、任務の他には街に出たことのない四恩には、そして〈137〉の外について何もわかっていない四恩には、驚きに満ちた体験だった。特に驚いたのは、猫という生き物が生きて、動いているのを見たことだった。知っていたが知らなかったものが、四恩の前を何度も横切った。
にゃあん。ににゃあ。ににににににににに。にあ。
どうやら東池袋一帯は野良猫の楽園になっているようだ。東子によれば、東池袋だけではなく、池袋駅周辺を除いた、その殆どが野良猫の楽園になっているらしい。かつて東京特別区で唯一、消滅可能性都市に指定された街は「消滅」を免れた代わり、猫に乗っ取られていた。
にああ。にああ。にああ。にああああ。
人の姿も疎らには、あった。
「目を合わせないで」
東子はそれより他には、人間について解説はしなかった。猫について話す時との、熱意の差のために、むしろ四恩は興味を持った。いわゆる――カリギュラ効果?
〈ちょっと違うかな〉三縁の朗らかな声――街歩きが楽しくてしようがないといった様子が伝わってくる。
猫ほどには頻繁にエンカウントできない人間という生き物は、この街では例外なく、座っている。
朽ちて倒れかけた集合住宅の前に置かれたベンチに、路上に、用途不明の箱に、みな例外なく座っている。
両目が炎症で膨らんだ瞼のために塞がっている者も、少なくはない。恐らくは、スマートレティーナを装着して後、それを外すということをしなかったためだろう。スマートレティーナは決して安いものではない。平日の昼間から道端に座り込んでいてもそれを毎日買い換えることのできる者は、そう多くはない。
それでも、彼等にとっては両目が瞼によって潰されるよりも、スマートレティーナを通してインターネットに、ブロックチェーンにアクセスできることの方が重要なのだろうということは、一目でわかった。
〈四恩ちゃん、もしも君さえ良ければ、彼等の方をそのまま、見て〉
四恩は返答することもなしに、三縁の言葉に従った。四恩と三縁の利害は、完全に一致していた。
〈外の世界が見たかった……それに……残したいんだ……〉
残、す――? 映像の記録を?
ににににににににににににににににににににににににににに――。
それは猫の鳴き声ではなかった。両目が肉に覆われた人々の数名が同時に出した嬌声だ。
ににににににににににににににににににににににににににに――。
そのまま、動物のように叫びながら、彼等は自分の股間へと手を伸ばした。そこから何をしようとしているのかは、モザイクのためにわからない。三縁が四恩のスマートレティーナを介して、ゾーニングした。ということは、三縁は、これを、見て――いる。
〈あの人、たち、何してるの――?〉
〈何もしてないよ〉
〈なにもしないこと――は、できない〉
「やだ! 人のオナニーなんて熱心に見るもんじゃないでしょ!」
東子は四恩の背中を大ぶりの平手で叩いてから、彼女の手を取って歩き始めた。擦り合わされる黒い革手袋と白い革手袋の音を聞きながら、なるほど、確かにマスターベーションは最も安価な娯楽であるかも知れないということを四恩は思った。
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