1-5-1 越境
四恩が覚醒して、まず見ることになったのは戦闘服姿の自衛軍兵士の2人だった。彼女は、彼等から〈137〉指定制服を受け取った。それが任務後にいつも洗濯されているのか、あるいは新しい物に取り替え続けているのか,四恩は知らなかった。知っていたのは、それが常に、どんな環境に対しても迷彩として働かないような純白であることだけだった。着替えるように命じられた彼女は、制服を持ってきた自衛軍の兵士の2人が彼女を観察する中で着替えた。それで,彼女はいよいよ基地の外へ、それも装輪装甲車による「輸送」ではない形で出ることを悟った。その悟りが,羞恥心の炎を吹き消した。
いよいよ後はニーハイソックスを引っ張り上げるだけという時に,四恩はさらに腕章を渡された。その腕章には「兵憲」と描いてある。
「へいけん――」
「けんぺい」
独り言にも律儀に対応する兵士のおかげで,四恩はかつてこの国では横書きを右から始めていたということを思い出した。
腕章を左腕に通すと同時に四恩は踵の高いエナメル靴を履いた。それからベッド脇に立ち、兵士たちに向き直った。それでも彼等は沈黙したままだった。後はどんな条件を達成すれば、彼等がまたコミュニケーションを開始するのか彼女にはわからず、しばらく彼女と彼等とはお互いの顔を見詰めあった。
「ぼうし」
防止――? いや,それは制帽のことだった。彼女がそれを頭に載せるとようやく、彼等は動き出した。まるで機械――。あるいは、機械への対応――。
外は快晴。だが風は強い。彼女は制帽を今少し深く被ることにした。それほどの強風。その中を,彼女と彼等とが歩いて、歩いて、歩いて、いよいよ到着したのは基地の正面ゲートだった。正確には,正面ゲートの歩哨詰所だった。
その内部で,入口であり出口でもあるゲートを出たり入ったりする装輪装甲車の車列を監視する兵士たちとは別に、さらにまた戦闘服姿の兵士が2名、詰所の脇に立っていた。彼女を引率していた兵士たちの敬礼に彼等が応じると、兵士たちは後ろに下がった。それで、彼女はちょうど二人一組の兵士に前後から挟まれる形になった。彼女はここ最近続いたジンクスを思い出した。後頭部を撫でる。瘤も何もあるはずがないが、頭を揺さぶった衝撃の記憶だけはあった。
兵士の1人が腕を前に出した時には思わず身構えたが,彼は点眼薬を差し出しただけだった。四人の男たちに見詰められながら、四恩はそれを挿した。眼球の表面上に隈なく拡がったそれは、スマートレティーナであった。そして、それが、今回の任務に関して最後の、〈137〉から供与された備品だった。兵士たちはもう表情を強張らせたまま、彼女から離れて、彼女が基地の外へ出るのを確認すること、すなわち恐らくは彼等の任務が終了することを願うばかりなのだから。
ミラー・ニューロンの働きに従って彼女自身の顔もまた強張り始めてようやく、スマートレティーナが視界の第二層を現出させた。そして、見覚えのある顔文字の円環がゲートを見る彼女の視界を縁取るようにして回る。
――( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )――
〈四恩ちゃん、聞こえる? 聞こえたら、あいうえおーって言ってみて〉
そして、あの水晶のように透き通った声――三縁の声。
〈あいう――え、お〉
〈これでいつでもお話できるね〉
声帯の振動を自分の骨の、何処か知らない箇所に埋め込まれた機械が電子的な信号へと変換し、それが三縁の元へ届く様を彼女は想像しようとしたが、どうしても三縁の身体のイメージだけはできなかった。
〈それで、これから――どうすれば、いい?〉
ゲートから兵士たちの方へ振り返る。睨んでいる顔が四つ、そこに並んでいるはずだったが、その顔の上には「( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )( ◠‿◠ ) ( ◠‿◠ )」の文字列が上書きされていた。最新技術の、まさに無駄遣いという趣き。
〈基地の外はもっと面白いことあるはずだよ。ぼくも、カメラ映像の分析とブラウジングでしか知らないけど〉
とはいえ、文化は常に無駄遣いとともにあり、四恩も僅かとはいえ、声を挙げて笑ってしまった。
〈これから、どうしたら――いい? まず、何をすれば――いい?〉
〈まずはお迎えが来るのを待てばいいよ〉
左手を右肩に回し、腕章を引っ張る。「兵憲」の文字を横に拡げて、視界の中央へ。
〈わたし、憲兵〉
〈うん。それで?〉
〈軍隊の、お巡りさん〉
〈そうだね。それで?〉
「おい! 雌豚!」
( ◠‿◠ )の文字列の下に顔を埋めていたとしても、兵士たちの緊張は四恩にも正確に伝わってきた。
「なんとか言えよ雌豚! お前はツンボか、オシか?」
貫頭衣を着た小林小町が下駄でも鳴らすようにしてサンダルで地面を打ちながら四恩の方に向かってきている。
〈ツンボ? オシ?〉
〈それぞれ聴覚障害者と発話障害者を指す俗語だね。その前の雌豚という言葉と、放送事業者が自主規制している用語ということから考えるに、君のことを罵倒するために選んだのじゃないかな〉
〈なる、ほど〉
放送事業者が自主規制している諸々の用語を叫びながら、彼女はついに四恩の鼻先にまで顔を近づけたのだった。その、四恩を睨むために顔の中心に向かって集中する表皮の上に、( ◠‿◠ )の文字列が貼り付けられた。
〈三縁――敵の顔はゾーニングしなくていい〉
〈う、うん。彼女、敵なの?〉
〈お迎えは、どこ――から?〉
〈ゲートから〉
三縁に言われて、四恩は再びゲートを見た。彼女のお迎えというのは、何処にも見当たらなかった。あったのは、ただ高い壁と平行するようにして通された大きな道路だけだった。
「戻ってきても、お前の席はもうないぞ。亡霊を追ってどっかに行くような奴は、使いものにならないからな」
四恩の横顔に向かって、小町は呪詛を吐き続けていたが、今や四恩が指定制服を着て、彼女が貫頭衣を着ているということが、四恩に幾許かの心の余裕を齎した。しかし、高度身体拡張者の少女たちの移動はどれほど微細なものであっても〈137〉の監視と管理の下にあるのだから、小町がわざわざ四恩を「見送り」に来たのも、大人たちの許可あってのことだろうと四恩は推測した。そして、胃の収縮。
「なんでお前が発狂したのか知らないし知りたくもないが、みんな喜んでるぜ。競争相手が1人、確実に脱落したんだからな。それも、自分から」
恐らくは、このように警告を与えさせるために、彼女に「見送り」を許可したのだろう。
または――挑発? 挑発なのかも、知れ、ない。
〈それで――お巡りさんは、どんな風に、捜査、する――?〉
〈うーん、殺人事件だったら、お巡りさんはまず、事件の存在を確認し、それからその確認した人が所轄署の強行犯係の人とか、鑑識の人、あと機動捜査隊の人たちを呼び寄せる。それで、殺人事件の可能性があると判断されると、警視庁捜査一課の人たちが呼ばれて、その人たちが事件性を確認すると、さらに捜査一課の殺人犯捜査係に出動命令が出て、捜査一課の刑事さんたちが捜査を始める〉
〈――?〉
〈それで、刑事さんたちは、事情聴取とか周辺の住民への聞き込みをして、犯人探しをする、と。これでも犯人が逮捕できないと、いよいよ特別捜査本部が開設される〉
〈――?〉
「お前はもう終わりなんだよ! 終わり終わり!」
〈つまりね、お巡りさんの捜査は組織的なものなんだよ、基本的に。参考にできないし、ならないよ〉
〈わたし――ひとり〉
言って、目の縁の熱くなるのを感じる。
「組織の庇護を離れて、何ができるって言うんだ。誰の性器をどっちの口で咥え込んだか知らねぇけど、お前が前みたいに優等生に戻るにはもうお前の腐ったマ――」
みしまあああああああああころすぞおおおおおおおおおおおおお――。
マの先を言わずに、小町は耳を押さえて絶叫を始めた。四恩には、それは「三島、殺すぞ」と叫んでいるように聞こえた。腰を落とし、歯を食いしばり、小町は頭の中で暴れる何かを平定しようとしているようだった。そしてそれはどうやら、三縁に責任を帰属させられるような何かであるらしかった。
〈ぼくもカウントしてよ〉
〈ごめん〉
〈ぼく、すごい有能なんだよ。配車だってできるし〉
指定制服と同様に白を基調にしたカラーリングの、一台の自動運転車が歩哨詰所の前に停車した。楕円体のそれは一人乗り用の車だった。外からは内部が見えない。四恩はラグビーボールを想起した。開口部から、彼女は中に乗り込む。巨大なソファが身体の形状を計測しつつ、彼女を半ばまで飲み込む。中からは外部が見えるようになっている。彼女は棺桶の内部に横たわった自分を幻視した。
〈何か音楽とか流したほうがいいのかな、基地の外に出るとき〉
出口側のレーンに車が移動した時、三縁はそう言った。
〈人類にとっては小さな一歩だけど、ぼくたちにとっては大きな飛躍なわけだからさ〉
なるほど、それはそうなのかも知れなかった。祝砲の一発ぐらい、必要なのかも知れない。思えば、この今の今まで、自分の意志で何処かに行くという目的を立て、それに従い自分の身体を動かすという感覚を四恩は味わったことがなかったのだった。
ということは――。でも――。
そして、小町の挑発とは反対に、これこそ四恩の大逆転の方策なのだった。何故なら、亡霊が亡霊ではないことが証明されたならば、結乃も水青も名誉回復され、ひいては四恩もまた名誉回復されることになるだろう。つまり、わたしは、今一度、優等生に――。
ということは―—。でも――。
〈四恩ちゃん?〉
〈ゆっくり――進める? それだけで、お願い〉
歩哨詰所から、四恩の要望の通り、ゆっくりと離れていく。やがて基地を囲む巨大な壁と壁の断絶、基地からの出口、外部世界への入口へと進んでいく。彼女は固く目を閉じることを選んだ。そうして第二宇宙速度へ入る前の宇宙飛行士の気持ちを想像している間に、彼女は組織の庇護を離れて、闘争の領域へと入っていたのだった。
《第一章終わり》
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