1-4-4-4

 おちつけおちつけおちつけ――。

 殆ど泣きながら、小町が繰り返す。消化と冷却を兼ねた冷たい水が降り注ぎ始める。小町の声を掻き消す。それでも絶叫だけは確かに冷たい雨の壁を破った。ぎよえええええええええんえええん、えええんえんえんえん、ゔぃやえええええんえんえん――。

 鋼鉄の壁を焼き切るほどの熱波は四恩の代わりに小町の太腿を貫いていた。足の一本が自分の身体から離れていく苦しみに、小町は泣き叫んだ。

「あたしの目を盗みやがったな!」

 誰かの怒声。厳密には目に入る光を盗んだのだが、説明責任はない。

 四恩は怒声を背後に部屋を出て、暗闇の中へと入った。足下で小さな矢印が明滅し、四恩をエレベーターにまで導く。

〈捜査官として基地の外に出るまで貴女が生き延びられますよう、祈っています。それでは〉

 淡々とした、武野の別れの挨拶が暗黒に響き渡り、消えた。

 四恩の返事を聞くこともなく。以上、通信終わり。

〈あの内務官僚、あんまり信用しない方が良さそう〉三縁の呟き。

 四恩、感想なし。

 背後の足音と眼前のエレベーターの降下音の区別に、彼女は集中していた。

 金属の箱が口を開く。

 降りてくる者は、いない。滑るように乗り込む。背中を扉と反対の壁に預ける。

 工学的必然によって閉ざされていく扉を、細腕の二本が停止させる。

 二本から四本、四本から六本、六本から八本。追ってきた少女たちの白い手の数々が扉をこじ開ける。雪崩れ込む少女たちが、四恩を床へ倒す。殴る。蹴る。蹴り上げる。間断なき暴力に、四恩はされるがまま。この距離での戦闘では、視覚を奪っても、何を結果することもない。やがて彼女は寒気を感じてきた。「還相」が作動して、彼女の内出血と裂傷とを再生しようとしているのだ。その急激な再生産が、膨大な熱量を要請し、寒気を喚起した。そして、血液の再分配による、目眩。

――あなたは生まれてくるべきじゃなかった。

――あなたは生まれてくるべきじゃなかった。

――あなたは生まれて……

「おい、これくらいでくたばるんじゃねぇぞ」

 目を盗まれたと言っていた少女の一言。四恩の貫頭衣の首元を掴んで、立たせる。しかし、それこそが命取り。彼女は靴底で四恩の顔を踏みことに集中しているべきだったのだ。

 ぶひゃああひゃあひゃぶひえぇ――。

 四恩の額が少女の鼻梁を潰して陥没させた。「還相」がメカニカルに彼女の身体を再生させていく。損傷部位の肉が膨れては破裂する運動を繰り返していく。それを見ると同時に、四恩は周囲の光を感覚していた。自分の反射する光と、それを集光し、四恩の像を結ぼうとする網膜とを、感覚していた。

 四恩はまだ三人の少女に取り囲まれていたが、彼女のことを本当に見ていたのは二人の少女だけだった。残りの一人は「還相」の作動に一瞬、目を奪われていた。

 鎖はその最も弱い環で破られる――。

 その原則に従い、四恩は鼻梁を潰した反動でまだ上を向いたままだったが、こんな状況で余所見をする少女に教訓を与えるべく、人差し指と中指の二本で彼女の目を潰した。

 ぴいいいいいいいえぴえぴえぴえぴえぴぴぴぴいいいいいいいいいいい――。

 目を押さえて床に蹲る少女。転げ回ることはない。狭いエレベーター内、仲間の邪魔になってはいけないからだ。

「殺す! 今ここで殺す!」

「殺すのはまずいですよ!」

 まずいのは、羽交い締めにしただけで相手を拘束したと考えることだ。優等生になって最上階の角部屋に住みたいのならば、当然、知っていなくてはならない。

 不用心にも四恩の目の前に立った少女の拳が顎に到達するより速く、四恩は彼女のまだ未成熟な胸を素足で踏み潰す。肉の床を蹴ったエネルギーが、四恩を羽交い締めにする少女へ襲いかかり、彼女を壁に叩きつける。一瞬、力の抜けたと同時、四恩自身もまた力を抜く。自由の身となった四恩は背中を取っていた者の背中を取る。その背中で片腕を捻る。骨の軋む音と痛みとが、彼女を四恩の操り人形にする。胸を踏みつけられて肋骨に肺を圧迫される苦しみを味わう少女へと、心を込めたプレゼント。腕から手を離し、前に押し出す。二人は小さく踊りを踊った後でエレベーターの扉にその身を打ち付けて、倒れた。

〈オオプン、セサミ〉

 三縁が水晶の声で唱えると、まるでそれに呼応したようにして扉が開く。

 その向こうには廊下が続いていた。四恩が釜石の所を出て、白兎を追って歩いた廊下だった。廊下は長く、その突き当りにある大窓が小さく見える光景が広がっているはずだった。だが、エレベーターを降りてすぐ、四恩の前方を黒い横隊が塞いでいた。

 タクティカルベストにファイスアーマー、そして自動小銃まで構える自衛軍の兵士たちの横隊だった。その少し前に出て四恩を見ているのは、〈137〉の司令官である岩井悦朗だ。岩井はそのまま小さく呟いた。

「蠱毒の術……」

「わたし――優秀、です。彼女たち5人を合わせたより――わたし、の方が、生産性が――高い」

「そのようだな」

 もう狭義の袈裟のようになっている白衣の袖で、血まみれの顔を拭う。

「結乃と水青の――弔い合戦に、行かせてください」

「弔い合戦?」岩井、鼻で笑う。

「――?」四恩、その意味がわからない。

「『お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ん中ではな』」

「あの――」

「行け。許可する。これだけのことであの木端役人が彷徨き回ることがなくなるなら、安いものだ。だが、無論、組織的な支援は無しだ」

「はい――」

「必要なものはこちらで用意してやろう。お前が何を必要とするのか、私はお前よりも知っているのだから。だから今は――」

 影の群れのようにも見える黒尽くめの兵士たちが四恩を中心にして、円を描く。今日はよく取り囲まれる日だな、と彼女は思う。

「眠れ。『言葉を紡ぐべき時間もあれば、眠るべき時間もある』」

 後頭部に衝撃。鈍痛すら、ない。それよりは、まるで頭の一部を喪失したかのような感覚。あるいは、綺麗に抉り取られてしまったかのような。そして、漆黒の緞帳が降りてくる。全ての物が四恩を裏切って、その向こうに退場していく。既視感の嵐に、彼女は息を詰まらせる。だから、空気までもが彼女を見限る。彼女は父と母の声を予期して耳を塞ごうとするが、今や身体そのものも漆黒の緞帳の向こうに行っているのだから、抵抗の術などない。

 嫌、嫌、嫌――。

〈おやすみなさい、四恩ちゃん。また後でね〉

 深い森の奥、粛然とした湖面を思わせる透き通った声が四恩の耳に蓋をしてくれたのだった。

 おやすみなさい、三縁――。

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