2-1-1-3

 そんな言葉の間にさえ、人々はより多く粒子状の完全食を取ろうと「ほああ、ほああ、ほああ――」と喚いている。それが真に合理的な食事方法なのか、四恩には判断できなかった。

 それでも、彼等が極めて真剣であることは明らかだった。必要に応じて、隣に立つ者を排除し、あるいは自分の踏み台としている。文明の萌芽は、確かにこんな状況でも存在したのだ。

 収容されている者の大半は成人以上に見える。でも――でも、そんな分類に何の意味が? 床に倒れたまま動かない女性の髪を引き千切り、それを自分の口に詰め込んでいく者。屈強な1人の男を数人がかりで押さえつけ……ふひぇええええええふひぇえええふひぇえええ……その眼球を抉り出す者たち。四恩は自分の目が霞んでいくのを感じた。恐らくは、異臭のせいだろう。金網の向こうでは、その床全体がトイレになっていたのだ。絶対に、見てはいけないものを見たからではない。見てない――見てない――。誰かの頭部を抱えたまま壁に肩を擦りつけて歩く女性の姿など――。見てない――見てない――。

 館内放送が聴き取られることを期待していない小さな音量で告げる。

〈放水開始五分前〉

「君にはこれから分子機械〈還相〉を用いた施術が行われることになっている。君には期待しているよ。君は――意識的にか、無意識的にかはわからないが、最後の瞬間まで体力を温存し、我々の保護の手が近づくに及んで首を使って一種の救難信号を打ち始めた。君の生存への意志は実際、大したものだ。それにまだ若い。可塑性がある。〈還相〉を投与するにはぴったりの年頃だ。ああなると……」

 男は金網の向こうを見下ろしている。そこには、十代前半の者を見つけることは難しい、ということを四恩も既にわかっている。

「非常に、難しいからね。〈還相〉の使用は慈善事業ではない。出ない芽は、出ないのだ」

〈放水三分前〉

「お別れの時間だ」

 言って、スーツ姿の男の顔は満面の笑みによって三日月を描いた。四恩の車椅子が、さらに前に押し出される。小さな前輪が壁に当たる。金網が、鼻先にまで来る。

〈放水二分前〉

 大人たちは四恩を残して、フロアから消えていった。彼女の車椅子を押していた職員もまた、例外ではなく。タイヤを転がす手のない彼女は〈放水一分前〉の放送を聴いた。叫ぶことはしなかった。「ほああ、ほああ、ほああ――」と叫ぶ声にとても勝てる気がしなかったし、それ以前に、叫ぶことに意味があるように思えなかったからだった。今必要なことは、そう――何故置いてかれたのかを考えることだ。何か失点が、あった、のでは――?

〈放水〉

 一瞬の、静寂があった。そして、放水が始まった。放水とは、天井に据え付けられたサーキュレーターの隙間から水を落とすことだった。その量は実際、凄まじいもので、四恩は確かに水の塊を見た。だがすぐに、その視界は歪んでしまった。撥水性のすっかり失われたビニール傘が翳されていたからだ。水がビニールを打つ強い音が消えていくとともに、彼女は誰かが傘を翳したのだということをようやく理解した。

 その人は少年のようにも、少女のようにも見えた。声だけが僅か、男性性の萌芽を持っていた。それに、白を基調に軍服をリメイクしたような格好は、パンツルックだ。彼――は、車椅子をエレベーターの近く、金網からずっと離れた場所にまで移動すると、四恩の目の前に膝をついた。

「こんにちは」

 少し目を細めて。少し口角を上げて。見る人から攻撃性を取り除いて、直ちに弛緩させてしまうような微笑。安心した四恩は挨拶には挨拶、何かをしてもらったからにはお礼を言うといった原則をすっかり忘れて、自分の言いたいことを言ってしまう。そんなことだから、お父さんにも、お母さんにも捨てられたというのに――?

「置いて――かれ、た」

「見込みがあるということだよ」

「見込み――?」

「好きな子はいじめたくなる」

「それは――子どもの話」

「あの人たち、子どもなんだ。見た目は大人、頭脳は子ども」

 再び車椅子が動き出す。今一度、エレベーターに乗ることになる。

「君の名前は?」

「四宮四恩――」

「シオン? どういう漢字? 詩の音?」

「四つの、恩」

「なるほど……。仏教用語から取ったのかな。『まづ世に四恩候ふ。天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩、これなり』……。素敵な名前だね。誰が考えたの? お母さん? お父さん?」

「ママ――」

 ママ、と言ったのがいけなかったのだ。上下の唇をくっつけて離す、口の運動がいけなかったのだ。それに、彼の穏やかな口調も。大人の姿をした子どもたちの施設案内を受けている方が良かった。目から溢れては上気した頬を冷やすものに、四恩は身震いする。

「僕の名前を言ってなかった。僕は――」

 白い手袋に包まれた指先が四恩の頬を優しく拭う。くすぐったい、と彼女は思う。

奥崎謙一おくざきけんいち。高度身体拡張者になる直前から直後まで、僕が君を守ります。よろしくね」

 これが四宮四恩と奥崎謙一の初めての出会い。そしてこの時から始まった四恩と彼の関係は、彼がアレッポに派遣される日まで続いたのだった。

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