1-4-4-1 シミュレーションとイミテーション

 四恩の足下に、水青は座り込んでいた。両脚は僅かに膝を曲げただけで投げ出されている。立つことを諦めたような格好。両腕は顔の前へ。隠された表情を覗こうと、四恩は水青の傍らに片膝を付いてしゃがみ込む。腕を除けようと、手を伸ばす。その手は水青の腕をすり抜ける。水青の顔をすり抜ける。幽霊に触れようという試みが四恩の胸の中に虚無を流し込む――。

 無条件反射のような素早さで、四恩は自分の手を胸の前に戻した。

 四恩が見ていたのは生き返った水青ではなく、三次元映像として部屋中に表示された、水青の姿だった。触れることはできない。だが見ることはできる。思い出して、腕の隙間から顔を覗き込む。ほんの少しだけだが、はっきりとわかった。その大理石のように青ざめた顔が。

 映像が時間に従って、動きだす。水青の周囲に張り巡らされた糸が風に揺れて輝く。彼女はタンパク質から成る糸を全身から放出することができた。「瞼から性器まで」。そんなことを水青に聞かされた記憶が四恩にはあった。糸はアミノ酸の配列次第で強度から特性まで操作することが可能であり、水青を常に守護する天使のようになる。天使は、彼女を傷つけようとする者は例外なく細かな肉片にする。

 どんな時も守護天使の羽の柔らかさを感じながら仕事をしていたはずの水青は、しかし、自分の顔を腕で守ったままだ。なにから――。四恩は水青が対峙したものを見ようと、水青の隣に座る。そうして、水青を恐怖させ、ついには水青を殺した者の訪れに備える。

 張り巡らされた糸の向こうに身体拡張者の男が姿を見せた。彼が身体拡張者であることは誰が見てもわかる。今や彼の右半身はバーストゾーンによる生成変化で腕が三本、脚が四本になっており、その全てが失われた衣服の代わりに粘液で覆われていた。

 その異様を見ても、やはり四恩には水青がこれほどまでに恐怖している理由がわからない。彼が一歩動くごとに、水青の放出した糸で引き裂かれていく光景を予期していたからだ。

 彼は四恩の予期を裏切って、何の支障もなく、右半身だけ膨張した身体を左右に大きく揺らしながら水青に近づいてくる。守護天使は水青を見限って、彼の側に味方したようだった。糸と彼の体表面が接触する、まさにその瞬間の度毎に白い光が迸り、糸を雲散霧消させていく。

 こないでよぉこないでってえこないよこないよこないよこないよ――。

 水青の幼児退行は短い時間のことだった。巨大な、あまりにも巨大な腕が彼女の頭頂へと目掛けて振り下ろされて、彼女をこそ細かな肉片に変えたからだった。

 糸が、水青という原点と切り離されて、自由の身となる。

 宙を舞う。

 光を乱反射する。

 まるで、現世を離れる者への祝祭――。

 宿主の危機に、〈還相〉がバーストゾーンへ移行する。

 肉片の各々が泡を吹き上げる。

 膨張し、生存を目指す。

 まるで、現世への未練の形そのもの――。

 すぐ横に座っていた四恩は真紅のシャワーを浴びる。

 どんな感触もなく、服を染め上げることもない。

 三次元映像に過ぎないからだ。四恩は、自分こそ幽霊なのではないかと思った。

 そう、幽霊。血を浴びることも、大腸で脱水されていた消化物の塊を浴びることもない。わたしは――幽霊なのだから。自分の身体を意識の対象としたのが、誤りの始まり。この腕も、この脚も。わたしのじゃ、ない――。ということは、この全身も、また。つまり――。

〈四恩ちゃん、大丈夫?〉

 三次元映像は終了して、今はもう、ただただ白いだけの何もない部屋の床に彼女は座っていた。床の冷たさが心地よい。寝転がって頬を擦り付ける自分を、夢想する。だが三縁の降ろした分厚い鋼鉄のシャッターが振動しているのだから、緊張は継続されるべきだ。

 横になることを我慢する四恩の目の前に新たな映像が投写された。正方形の窓の向こう、見たことのある顔が表情を廃棄して浮かんでいる。当然だ。映っていたのはキャリアの墓場から出てきて水青を捜査官へ勧誘した男の、しかし能面のような無表情だ。武野無方――せっかちで人の話を最後まで聞かずに返事をする内務省の特別捜査官。背後に人通りのあるのが見えた。何処か外にいるらしい。

〈電話が来たよ。出る? もう少し後にしてもらう?〉

 繰り返すシャッターの振動音が、先送りを許さない。四恩が小さく首を横に振ると、武野の「もしもし」という声が聞こえた。

「わ――」

〈見えていません。『SOUND ONLY』という表示が貴女の顔ならば、話は別ですが〉

 武野が特に関心もなさそうに言った。それはいかにも多感な年頃の少女にはどのように相手をすればよいのか後天的に学習した結果の言葉のように聞こえた。

「よ――」

〈用事があるか、貴女が私に尋ねるのですか? 驚きましたね〉

 全く驚いているように聞こえない。

〈四宮さん、こういうことをされると弱ります。どういうつもりですか〉

 やはり全く弱っているように聞こえないが、彼が非難したいことについて四恩は概ね把握していた。何故なら、四恩は三縁に頼んで水青が死ぬ直前の映像を内務省のデータベースから掘り起こさせていたからだ。特に、作成者と管理者が武野無方であるようなデータに集中して。彼は新宿の店という店の店頭のカメラ映像を収集して蓄積していた。それを三縁が整理して、三次元映像にした。ために、四恩は、三縁があの天使の声を捨ててチャイルディッシュな早口で自分の情報工学的知識と技術の高さについて誇るのを聞かされていた。とはいえ、内容の複雑さに溜息をつくと何故か彼は謝罪の言葉を口にして、すぐに話を中断してしまったのだが。

〈典型的な不正アクセス、情報漏洩防止の違反――共謀、教唆、煽動を加えることもできそうだ。それに、どうやら現行犯でもあるらしい。何処かの部屋に立て籠もっているのですか? 打撃音が煩いですよ〉

「み――」

〈御厨さんが亡くなったのは知っています。それを調べるために私は今、新宿にいて、情報を集めていた。その成果に、貴方が不正アクセスした〉

「い――」

〈何故、彼女に捜査官の身分を与えるまでに一週間かかったか。私を非難するつもりですか? それは軍の側の都合です。いや、それとも、貴女は御厨さんの死について、軍を疑っておられる? そうですね?〉

「わ――」

〈しかし――〉

「聞け――!」

 思わず叫んでしまった。頭に血流の集中していくのがわかる。脳を、舌を、円滑に高速回転させるための生理学的反応。わたしは、興奮、している――。そこまで意識してなお、胸の奥で爆発し、口の中へと溜まっていく感情の圧力を制御できない。〈ボリュームを上げようか? なにかエフェクトをかける? ぼく、DJの才能もあるんだよ〉三縁が何か言っているが、何も必要にないように思えた。聞け――!

「わたしを、捜査官にして――この不正アクセスも、材料に――三縁の仕事を、わたしが、引き継ぐ――打撃音は、わたしを、捕まえに来た子たち――でも、それも、捜査官になれば遡及的に――」

〈――可となる。良いでしょう〉

 初めて武野無方が会話の構成物ではなく人間そのものとして、四恩には感じられた。彼は明らかに、笑っていた。とはいえ、それはやはり微少の微笑だった。

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