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 四恩は2枚のカードを選び取った。

 彼女にはもう、維持の努力を払うに値する安定など望むべくない。あるのは、被検体として全国をたらい回しにされる未来だけだ。その未来にしても、希望的観測だった。彼女はそこでようやく、前線からも後方の広報任務からも退いた少女たちが今何をしているのか何も知らないことに思い至った。彼女は世界について、知らなすぎた。そういうわけで、2枚のカードで何処へ行くべきかも思いつかなかった。

「白ウサギを追いなさい」

 とだけ釜石は言って、ソファに横になってしまった。

「先生――」

 初老男性には生きること自体が疲労の種らしく、彼はもう深い呼吸を始めていた。四恩は2枚のカードで施設の外へ、そして基地の外へまで行くことを夢想したが、やはり彼女が着ているのはいかにも無防備な貫頭衣だけだった。彼女は白ウサギを探すことにした。

 カウンセリング・ルームを出ると黒いセーターにブルーのジーンズ姿の若い女性が廊下を走って、こちらに向かってきている。二十代前半か、そのあたり。バインダーを抱えて、クラシックな腕時計を何度も見る。縁無しの眼鏡と白衣だけが、僅かに軍の研究機関に所属する彼女の階級階層を示す小道具だ。

 白衣――。

「大変、大変、遅刻しちゃう」

 言いながら、彼女は四恩の前を通り過ぎた。四恩は確認するように釜石を振り返った。釜石は小さく片手をあげている。四恩は彼女の後へ着いていくことにした。

 白ウサギはエレベーターの前で立ち止まった。四恩もまた、それに伴って、立ち止まる。エレベーターは彼女達のいる階の遥か上方で停止しているようで、ボタンを押してなお、なかなか乗り込むことはできない。その時間に、彼女達の周りには多くの白衣の男たちが立っている。中には白ウサギと同様二十代も前半といった、若い者たちもいる。陸上自衛軍〈身体拡張技術研究本部〉は博士号が取得可能な教育課程を備えており、彼らはそこに属する「学生」だ。

 誰も四恩には言及しない。言及するもはずない。まさにこの今、彼女こそが幽霊なのだから。施設内のセキュリティに対する信頼によって、施設内の相互行為は成立している。研究部門の最高責任者である釜石が実験動物と連番のIDを持つ少女にIDカードを貸与するなどありえない。四恩が「上」からの、どんな指示を得て施設内を歩いているのかわからない以上、「触らぬ神に祟りなし」だ。誰かに公務の執行を妨害したと言われる可能性すら、ある。発達したセキュリティと相互監視の網は完全性の自負のために、補足し損ねたものについて押し黙るしかない。

 観察するシステムは何が観察できないかということを観察できないということが観察できない――。

 四恩と白ウサギとその他諸々を飲み込んだエレベーターは下階へと降り始めた。途中階で次々と人間を吐き出していき、ついに、エレベーターの中は四恩と白ウサギの二人だけになった。四恩は白ウサギの存在を意識していないことを白ウサギに伝えるべく、エレベーターの出入口の脇、階数ボタンのすぐ上にある液晶中でB1、B2、B3、B4……と増えていく表示を熱心に見詰めるを振りをしていた。だが白ウサギの方は四恩の頭頂から背中までに視線を往復させている。そのことが、四恩にはわかった。白ウサギの網膜に到達する光線を感覚していたからだ。その視線がスリッパから露出する踵にまで至った。四恩は燃え上がる心の臓府を理解した。

 大きな揺れが、あった。エレベーターが停止したらしい。見ると、液晶から階数表示が消え、代わりとばかりに人の顔を模したマークが浮かんでいる。

――( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )――

 恐らくはそれが合図。白ウサギがポケットから紙切れを幾枚も落としながらIDカードを取り出し、顔の横に掲げた。四恩も釜石のIDカードを手に取って、同じようにした。

〈釜石先生、網膜による認証ができないよ〉

 エレベーターの狭い箱の中、反響したのは少年とも少女ともつかない声だった。クリスタルボイス――。

 声にうっとりとする暇はなかった。白ウサギが四恩のことを見詰めていたからだ。

「釜石先生……?」

 彼女が眼鏡の弦を直しながら呟くのを四恩は聞いた。四恩は急いで網膜の代替であるカードを手に取って顔の横で示した。

〈IDも網膜も確かに釜石先生だね。なら、ぼくは君を釜石先生として遇するしかないだろう〉

 ジェンダーレスな声がそう言うと、白ウサギも四恩への興味を失ったらしくバインダーを胸の前で拡げた。それから、僅かの浮遊感。エレベーターがまた下方へ動き出したようだ。

〈それにしても、随分、身長が低くなったんじゃない?〉

 声が、聞いた。白ウサギはバインダーに挟んだ何かに目を通している。それで、四恩は声が尋ねている対象が自分であることに気づいた。

「重力が――」

〈重力のせいなの? 生き辛いね。目がぱっちりしたのは?〉

「よく見るために――」

〈なるほど。『常に念を摂めて心に在らしむべし。もし念を失せばすなわち諸の功徳も失う』。髪、綺麗だね〉

「シャンプーとリンスを――」

〈凄い。量も長さも改善するの〉

 エレベーターの扉が開いた時、四恩の見ることができたのは暗黒だけだった。彼女が金属製の箱から出ることを躊躇っていると、白ウサギは白衣を脱いで彼女の肩に賭けた。白衣を羽織った格好の四恩が白くなくなったウサギを見上げると、そこには穏やかな微笑があり、その微笑は「寒いからね」と言った。高度身体拡張者は極地での戦闘に従事することも想定されており、寒さを感じることもなく、上着など無用といえば無用だ。それでも自然、「ありがとう――」の言葉が出た。

 白ウサギの役目を終えた女性はエレベーターを出た。出ると、床が淡く光った。すぐ左手に消えた彼女に続いて、四恩もエレベーターを出た。やはり床が淡く光ったが、四恩の時だけはまだ踏んでもいない床が光り出した。それは明らかに、エレベーターから闇の中へと、一本の真っ直ぐな道を描いている。四恩は光あるうち光の中を歩くことに決めた。

〈『常にまさに一心に勤めて出道を求むべし』〉

 歩きながら、エレベーターで聞いたあの声、鈴の鳴る音にも似て澄み渡る声が響くのを彼女は聴いた。同時に、自分の反射する光が天井のそこかしこに集められているのを感じていた。声の主は、彼女がエレベーターの中にいた時からずっと、熱心に彼女を見ているようだ。

〈『一切世間の動不動の法は、みなこれ敗壊不安の相なり』〉

 目を凝らすと、遥か遠く、右手の壁一面に何か描きつけてあるのがわかる。

 壁という巨大なキャンバスを利用した、極彩色の絵だった。異様に頭と手の先の膨らんだ子どもたちが茶色の層の上に立っている。その層の中には赤茶色の球体が幾つも埋まっている。進んでいくと、球体から緑色の線が伸びている絵に変わっていく。まるで絵巻物だ。緑色の線はやがて茶色の層から顔を出し、そう、葉を繁らせる。葉だ。やがて、殆ど頭と手だけの存在になった子どもたちがブルドーザーにも酷似するほど大きな手を茶色の層の中に突き刺し、球体を掴んでいる絵になった。その頃にはもう、光の道も終わった。彼女の眼前に、再び、暗黒が横たわる。

 その暗黒の広大さに打ちのめされそうになり、帰り道を求めて思わず振り返れば、しかしもう光の道も消え失せていた。四恩は暗黒に、包囲されていた。息を飲む。飲んで、自分が一個の戦争機械であることを思い出す――光を操作する戦争機械。彼女は自分の放出する遠赤外線を感覚し、やはりそれが集められて、感光材料に照射されているプロセスをも感覚した。そしてなにより、暗闇によって、この戦争機械を無力化しようという安易な発想への彼女自身の怒りをさえ、感覚した。それから、釜石が会わせようとした者がその程度の者であることへの――。

「おい!」

 まるで彼女の怒りとその他の諸々の感情を代理表象するかのようにして、複数の怒声が轟いた。

「おい! 三島! 灯りを点けろ! ぶち殺すぞ!」

「調子乗るのもええかげんにせぇよ! ボケェ!」

「なめてんのか! コラァ!」

 それは明らかに年端もいかない少女たちの声であり、つまり明らかに137の高度身体拡張者たちだった。足音が聴こえなかったことから推測するに、彼女たちは部隊指定の制服を着て、しっかり戦闘に備えているらしい。その戦闘のためにこの地下を歩く彼女を声の主が照明を消して妨害しているようだった。

 戦闘――? 何との――?

〈なめてねぇよ、バカヤロー!〉

 天使の声色が言い返した。あまり気迫を感じないが、電子回路で増幅させているからボリュームだけは大きい。

「コノヤロー! この件は上に報告すっからな」

〈既に上は知ってんだよ、チンピラ!〉

「誰がチンピラだ、コラァ!」

 周囲の赤外線の分布を感覚すると、床に「そのまま静かに前へ進み続けて」の文字列を読み取ることができた。四恩はスリッパを脱いで両手に持ち、裸足になって前へ向かって歩いた。

〈ようこそ、地の底へ〉

 何歩進んだかのカウントにも飽き出した四恩に、あの声が言った。続いて、淡い白光が彼女を包み込む。光量に慣れると、真っ白な部屋の中に入っていたのがわかった。

 その部屋は地の底とは思われないほどに広い部屋だった。彼女の独居房とは比べるべくもない。本部長室とも。床よりも天井の方が、面積が広く、壁は斜めになっている。床や天井と同様に、壁もまた大理石のように光沢のある白色だが、一面に模様が刻まれている。

 模様の法則性はすぐにわかった。壁の一面を小さな正方形で区切っているのだ。そして正方形の内部、中心には数字が刻まれている。311、226、515……――四桁のものもある。

〈ごめんね、いきなり真っ暗にして。怖くなかった?〉

 声の主を探して部屋を見渡したが、何処にも姿はない。

「どうして暗くしたの――?」

 仕方なく天井に向かって問いかける。やはりカメラのあるのが、わかった。

〈無粋な人たちが僕と君との時間を邪魔しようとしたから〉

 がんがんがんがんがんがんがんがんがんがんがんがんがんがんがん――。

 壁から、金属を何度も叩く音の方へと目をやる。部屋の入口らしきものが、ある。小さなノブのついた何の変哲もないドアが、ある。ドアは外からの力で軋んでいる。

 おいこら開けろおいこらおいこらぶちころすぞこらおいこら――。

 怒鳴り声も聞こえてきた。

「あれは――」

〈君のことを捕まえにきた子たちだよ〉

「ん――」

 道徳的な現象などというものは存在せず、存在するのはただ現象の道徳的な解釈だけだということを四恩は正確に理解していた。この世界は解釈同士が殺し合う宇宙なのだ。恐らく、彼女は本部長に次ぐ権限を有する釜石透から無理矢理にIDカードと網膜情報カードを奪い取り、ここに来たということになっているのだろう。その解釈は、彼女の存在そのものが一個の武器であるからには充分に説得力のあるものになるだろう。

 しかし四恩はもう逮捕など恐れてはいなかった。既に彼女は牢獄の中にいる。この現世という、亡霊に満たされた狭い独居房に。ならばどうして、逮捕を恐れる必要がある。どんな権力も二重に逮捕することはできない。 

 おいこらああああおいおいおいおいあああけろおおおぼけええええええええええ――。

〈うるさいなぁ、もう〉

 少年のように、あるいは少女のように無邪気な一声の直後、分厚い壁が天井から降りてきて入口を覆い隠した。エレベーター同様に、声の主が室内の機械をコントロールしているらしい。

 外の喧騒が壁の向こうへと退き、室内の隅々まで静寂が満たすと〈君のこと『四恩ちゃん』って呼んでもいい?〉という声が聞こえた。少女たちが四恩を逮捕するべくやって来たことを把握しているという一点からしても、声の主が四恩の名前を知っていることには何の不思議もなかった。天井を見上げるのに疲労した四恩は、壁に刻まれた数字に目を戻しながら「いいよ――」と応えた。

〈先に名乗るべきだった。ぼくの名前は三島三縁みしまみより。好きに呼んでくれていいよ〉

 まだ声しか判断の材料がないが、この少年とも少女ともつかない人が釜石の出した「処方箋」なのだろうか。それでも釜石を信用し、四恩は三縁とのコミュニケーションを続けることにした。信用の上に信用を架設する。こんなに大胆なことをしたのは初めてだった。四恩は息が詰まりそうになった。ある種の興奮のために。

 全てが罠だったとしたら。

 いや……。

 全ては罠「だった」。

 だが、この瞬間からは?

「三縁、わたし、釜石先生、あの、その、つまり――」

 一挙に場を支配するために適切な言葉を紡ごうとしたが、舌も唇も四恩を裏切って彼女の混乱と不安だけを表出した。

 透明な声が、催眠術師のように囁く。

〈815ってあるのがわかる?〉

 四恩は壁に近づいて、胸の高さにある数字の刻印に指先で触れながら歩いた。530、630、830……。815は彼女のちょうど頭の高さにあった。刻印は小さく、彼女は手のひら全体で「815」を表す、壁と壁の窪みの差異を感じることができた。

〈ぼくはね、その奥にいるんだよ〉

 反射的に、壁から手を離す。不躾にも、他人の身体に触れ続けているような感覚のために。彼が何を言っているのか理解すると、白衣を貸してくれた女性への強い感謝の念が四恩の中に再び浮かんできた。寒気を、感じた。それは、身体障害者の少女に分子機械を投与して「治療」しているという現実に、既に感じているべき寒気だった。

〈ぼくはね、その奥に、全身の皮膚を剥がした上でニューロコンピューターのCPUとして納まっているんだよ〉

 労働にも軍役にも適さない身体障害者が社会保障費の廃止された国で生き延びようと身体拡張者になっていった時、その他の労働にも軍役にも適さない者たちはどうしたのかを四恩は考えたことも知ろうとしたこともなかった。

 その一人が、あるいはその数百人が今、四恩の左右の壁の奥にいるのだ。

〈さて、四恩ちゃん。ぼくは外の世界を見たいんだ。だから君に協力しようと思っている。さらに……いや、言わないでおこう。その方がかっこいい〉

「わたしと接触した時点で破棄が決定――」

〈平たく言うとそうだね。なんか恩着せがましくなるから、言わないほうがいいのかなぁと思ったけど。でもこれで、ぼくのこと信用できるようになったよね? ぼくたちの間に駆け引きはいらない。早速、共謀を始めよう〉

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