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 本部長との面談後、毎夜宿舎のドアというドアを叩いて周る医師に軽い不眠を訴えると、四恩は毎日精神科医とカウンセラーに会うことを命じられた。その判断を、彼女はある意味で正当化してやったわけだった。結乃の幽霊が顕れるようになったのだから。さらに水青の幽霊の現象も時間の問題であるように思われた。

 水青が何故、死んだのか。それは四恩の知り及ぶところではなかった。そうであればこそ、幽霊の登場は秒読みであるはずだ。高度身体拡張者が病気で死ぬことはない。「還相」は免疫系を強化する。「還相」と宿主の蜜月を脅かしかねない異物を排除するためだ。高度身体拡張者が早死にするということも聞いたことがない。ということは、消去法に拠れば殉職が水青の死の説明に相応しい。しかし皮膚表面に毛穴と汗腺に加えて、カーボンナノファイバーの糸を放出する穴を持ち、それを操作するための頑丈な皮膚も備えた少女を日本国内の誰が殺せるのか。と、ここまでの意識の流れに、四恩は既視感があった。

 ――結乃の時と――同じ。

 いますぐ、精神科医に会いたい、と四恩は思った。彼は古いタイプの行動主義者で、彼女の身体に現れる精神病の症状とその抑制のための処方箋を書くことにしか興味がない。だから、楽なのだ。思考の自己撞着を、思考の停止によって停止させるような薬を出してくれる。

 比べて、あのカウンセラーは最悪だ。一三七の少女たちが「ババア」という時、それは実は固有名詞で、これから四恩が会わねばならないカウンセラーのことを指示している。それくらい人気がない。四恩には還暦の女性を「ババア」と呼ぶ習慣はなかったが、あの弛んだ身体のラインを強調するパンツスーツスタイルファッションに、皮膚を殺すレベルの厚化粧はどうしても受け付けなかった。

「ババア」は米国の最新心理療法を学び、それを日本に輸入したと主張している。だが人事資料によれば実際に「ババア」が米国で学んだのは催眠療法が大流行していた1980年代のことである。「ババア」は、もう五十年以上も前の心理療法を最新と主張して、公務員としての地位を得ていたのだった。

 果たしてカウンセリング・ルームで四恩を待っていたのは「ババア」ではなく釜石透かまいしとおるだった。釜石はカウンセリング用の応接セットのソファに座っている。すぐ前のガラステーブルには湯飲み茶碗が二つ。彼は四恩を見るなり、小さく手を挙げて「やあ」と言った。虚を突かれた彼女は、彼の向かいに腰掛け、湯飲み茶碗から緑茶を啜った後で「やあ」と声だけで返した。

 釜石はノーネクタイのシャツの上に白衣を着ている。その胸ポケットはメモ帳と数本のボールペンで一杯だ。長い顎髭に禿頭、柔和な笑みもあって、いかにも「赤ひげ先生」の風情だが、彼こそがGNR革命の中心的人物だった。

 科学の発展は知識の蓄積と応用に拠るのだから、中心的人物の特定はいかにも困難ではある。しかし日本発のGNR革命においては、彼が中心的人物と言って間違いはなかった。彼こそが初めはナノテクノロジーとロボティクスの革命すなわちNR革命として進められつつあった革命にジェネティクスのGを付け加えてGNR革命としたのだから。分子機械の開発は自分自身より小さい機械を作ることのできる機械の開発として始まったが、釜石はそれを逆転させ、自己言及的に自己自身を自己産出するシステムとしてのウィルスの操作から出発し、分子機械の開発に成功したのだった。

 さらに彼は孤児を回収し、高度身体拡張者とするという厚生労働省、文部科学省、防衛省の三省に跨る人的資本のプラットフォームを立ち上げたのだから。彼は優秀な学者であり、有能な経営者だった。

 概ね以上のことが、四恩が他の少女たちと詰め込まれた講義室で聞いた、高度身体拡張者の誕生の奇跡と軌跡に関する正史である。それを聞いた時に四恩がわかったのは、自分の身体とその中で蠢く人工生命のことを自分は全くわかっていないということだけだった。

「まるで幽霊を見たかのような顔だ」

「なんで先生が――?」

「君こそ、なんでここにいるの?」

「眠れないから――」

「あまり調子がよくないみたいだね」

 最高の最高学府を出て欧米を回ってきた男のコメントはあまりに凡庸だった。韜晦ならば、成功している。四恩は目を伏せてお茶の表面を見た。微細な埃の流動をを見た。カウンセラーと会う時間が早く来て欲しい、と彼女は思った――未体験の心象。

「いつから?」

「池袋から――」

「池袋の一件から、という意味だね? 君はそういう風に理解しているわけだ。君がそう思うのならそうなのだろう。君の中では」

「先生の中では――」

「その前からずっと、よくないのだと、僕は思うんだな」

 湯飲み茶碗を呷るようにして、ついには啜り上げて、釜石はお茶を飲み干した。「いい?」四恩の前に置いた湯飲み茶碗にも手を伸ばす。陶器とテーブルが音を鳴らした時には、彼女はもう器の底を見ることができた。

「君の力はそんなものではないはずだ。池袋の、コンクリートに空いた穴を見たよ。見事なものだね。太陽炉だろう、あれは。それから、そう、忘れていた、あの完璧な光学迷彩。可視域を遥かに越えて光を感覚し、そしてそれを操作してしまう君なら造作もないこと。しかし、君の力はそんなものではないはずだ。――君は放射線を見たか?」

「は――?」

「君は放射線を見たか?」

「なんのはなし――?」

「どう話したらいいのだろう。そう……我々はね、君について、まだ『君が可視域を遥かに越えて光を感覚し、そしてそれを操作して』いるという酷く、こう言ってよければ小説的な物言いでしか記述できていないんだよ。若い子たちは――若い研究者たちは、より正確な記述を求めて、今この瞬間にもエナジードリンクを飲んで頑張っているが、私は原理的に不可能ではないかと思っている」

「大人の方が、わたしよりわたしを知っている――」

「いや、それは完全に誤解だ。彼等は、つまり私も含めて、君を君と同様に知らないか、または君よりも知らないのだ。これは極単純な話だよ。君以外は君ではないのだからね。しかしそんな水準の話については、これ以上は沈黙しておくことにしよう。私が言いたいのは、君のその能力についてもまた同様であるということだ。君の能力がどういったものであるのか、我々は近似値しか知らない。能力の発現を我々はコントロールできていない。我々はそもそも『還相』がどのように環境情報を処理しているのかすら、近似値しか知らない。我々は、というより私は、近似値しか知らないがゆえに、分子機械の外部からの構築を断念したがゆえに、この地位にあるのだ。君たち高度身体拡張者と普通の、身体拡張者の差異が何かわかるかね?」

「わたしたちの方が強い――」

「中学生みたいなことを言うなあ、君は」

「中学生ですよ、わたし――」

「失礼。その差異はただ、蓄積されたサンプル数の違いだよ。身体拡張者に投与される『還相』の論理機械の作動は既に膨大な量のサンプルを集めてある。これを処理した結果、近代的な軍隊における兵営生活と標準的な国民生活において、直ちにバーストゾーンに移行するような事象に遭遇しない蓋然性が高い、あるいは一定の刺激に対してはバーストゾーンへ移行する蓋然性が高いと推測される『還相』を投与した個体を身体拡張者と呼んでいる」

 サンプル、個体、一定の刺激――。釜石の微笑の穏やかさと吐き出す言葉の対照に、四恩は彼から目を逸らす。彼女は被験体である我が身を省み、自分が自意識を持つ一人の人間であると思い始めていた恥ずかしさに身を焦がした。

 床を見ながら、聞いた。

「そのサンプルはどうやって――?」

「聞いたら君は逮捕される」

 釜石の即答。

「べつに――」

 逮捕されても構わない、と四恩は思った。もう既に逮捕されて、独居房に閉じ込められているようなものだ。このまま体調が回復しないのならば、あの花形の職務に戻ることも難しく、そしてあの花形の職務に戻ることができなければ、体調の回復もありえない。

 出口、なし――。

「いや、逮捕させるわけにはいかない。私は君の本当の力を見たいのだ。『高度』身体拡張者である、君の。我々の予期を裏切り尽くすような地平に立つ君の。そのためにもまず、君に良質の睡眠を与えなくては、ね。四恩、『本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機――キ――ノ――ウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね』」

 四恩は顔を上げた。釜石の穏やかな微笑にはどんな変化もなかった。もしかすると、それは表情などではなくて、そういうデザインの仮面なのかも知れなかった。

「君は、大人たちによる結乃と水青の死の説明に、疑念があるのだろう? もしくは、そう、存在しないはずの者が存在するかも知れないという疑念があるのだろう?」

 釜石は白衣の胸ポケットの中身を丸々取り出してテーブルに置いた。分厚いメモ帳と付箋とボールペンの数々の間から、釜石は2枚のカードを取り出して右の手に持った。1枚目――極標準的なマイナンバーカード、添付された顔写真の男は明らかに釜石だった。2枚目――半透明のカードには幾何学的な模様が描きこまれている。

 基地内の諸施設は宿舎のような例外を除けば、殆どが扉ごとに電子的にロックされている。そのロックは二重になっており、解除のためにはマイナンバーカードと網膜による生体認証が必要になっている。2枚目のカードは、恐らくは眼球に代わり網膜として機能するパターンが描かれているのだろう。つまり、本部長に次ぐ基地内移動の自由を保障するカードが四恩の目の前に、ある。

「君が最初にした質問に答えていなかったね。君のカウンセラーなら、私の研究室で若い人たちとお茶を啜っている。正規の手続きで、僕と君との面会の時間を作ってもらった」

 次に彼は白衣の脇ポケットからアルミ製のピルケースを取り出し左手に持った。

「右は……君なら、わかるね。この2枚で、1枚の自由通行許可証になる。君は本部長に次ぐ移動の自由を得る。結乃が何故死んだのか、水青が何故死んだのか、そして誰が彼女たちを殺したのか――真実を巡る冒険が始まる。左は、夢の国を通り越してバーストゾーンにまで行ける薬だ。僕が特別に用意した」

「先生は――どうして欲しいの――」

「僕? 僕はただ、君の本当の力を見たいのだよ。それに、僕は君の証言能力を信用しているからね。水青も、そうだった。君の疑念には正当性がある。全情報認知システムの話をしっているかね? 米国防総省高等研究計画局〈DARPA〉のプロジェクトだ。情報産業が蓄積しているデータを用いて、犯罪予防、テロ予防を目指した。フィリップ・K・ディックの『マイノリティ・リポート』みたいなものだね。だが受注した民間企業があまりにも杜撰だったし、想定よりも効果が上がらないのですぐに停止された。こういうことは繰り返されている。エシュロンはわかるかね? エシュロンは世界規模のテロ予防のための情報収集システムを目指した通信傍受体制のことだ。これも失敗している。陰謀論者には残念なことに、ね。どんな情報収集体制、どんなデータマイニングのためのアルゴリズムを構築しようとも『未来予測』は不可能なのだ。『未来予測』そのものが未来を変化させてしまう。誰も社会の外部から社会を観察することはできない。想像の専門家たちが考えるよりも、全体主義に奉仕するテクノロジーというのは幼稚なものだ。出し抜くために必要なのは……僅かの大胆さだ。存在しないとされるものが存在したとしても、何も驚くことはない。それが僅かの大胆さを備えていたなら」

 釜石は腕時計を見た。「時間がない」四恩の顔の前に両手を突き出す。

「さあ、四恩、どちらを選ぶ?」

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