1-3-2 地下食堂のシェイクスピア俳優

 食堂は宿舎の地下にある。その部屋は広大と言っても言い過ぎではない広さだ。だが窓がない。巨大な独居房とも言うべきその空間には一人用の座席が延々と並べられているだけだ。どんな装飾もない。もしも、部屋の彼処で微動だにせずに立つ自衛軍の兵士を調度品に含めないとすれば。

 一三七で国内任務に従事する高度身体拡張者たち、すなわち特殊兵器である少女たちはここで食事を摂ることになっている。大人たちは、彼女たちのコミュニケーションが「誤配」されてサボタージュやストライキといった集団行動へと至ることを何より恐れており、個室すら与えているのだが、個室での食事は許されていない。一三七が大勢の少女を管理する業務を始めた、その最初期には、それぞれの個室へ食事を運ぶ方法が取られていたらしい。四恩の聞いたことのある話では、溜め込んだプラスチック製の食器を粉末状にしたものを飲むとか、腐らせた肉類を一気に食べるといったことが繰り返し行われて、現在のような食堂方式になったとのこと。高度身体拡張者が自殺するのは神になるより困難と言われているが、それにしても、実行者たちの主観では間違いなく自殺を企図していたはずであり、大人たちはそれを読み取ったのだろう。四恩が一三七の指揮命令下に入った時には既に、無線通信で食事を摂るようにと食堂へ呼び出される仕組みになっていた。

 無線通信はまず部屋に四つある壁の内の一つを指定する。壁にはそれぞれ、食事を出すための幾つかの開口部が付いている。次に開口部が指定される。行くと、開口部が「特殊兵器」それぞれのIDを刻印したトレーを吐き出す。それを受け取って、指定された座席に着き、いよいよ食事を摂ることができる。だから食堂では座席に着いて食事を摂っている少女たちもいれば、壁際に立っている少女たちもいるという風景を見ることになる。

 四恩はID19171107の刻まれたトレーを手に取った。その上に乗っているのは、一三七が収集した彼女のヘルスケアデータから導き出した「最適な食事」である。それゆえ、それはいつも味気ないものなのだが、今日の彼女のトレーにはこれまで見たことのないほど色鮮やかな野菜と、サクランボの載った大きなプリンがあった。後ろに列んでいる者たちの囁きを彼女は聴いた。一三七の指揮命令下にある少女たちの娯楽といえば、睡眠と排泄、そして食事くらいのものだ。それ以外の娯楽は不正な手段でなければ得ることができない。囁きはやがてざわめきとなるだろう。四恩は急いで壁から離れ、指定された座席へ向かう。

 しかし一体どういうことなのか。座席にはもう誰かが座っている。小さな背中を丸めているのが見えた。背中では波型に癖のある豊かな髪を垂らしている。

 四恩は一三七に来たばかりの頃を思い出す。食事をしていると座席の前を通った少女たちに髪の毛や唾液を落とされた、あの頃を。いじめはマスターベーションに次ぐ、不正ではあるが人気の娯楽だった。それが無口で無能な少女を対象とするなら、なおのこと。

 これは、そういうくだらないことの、延長線?

 確かにあの頃は広報の任務しかできなかった。だが今は違う。国内テロ事件の実行犯を血祭りにあげて社会の秩序を防衛する、まさに花形の任務に従事している。本部長の覚えもめでたい、優等生だ。

 わたしは、優等生、だ。

 身の程知らずの少女を睥睨しようと、四恩は座席の前に立つ。

 机には大皿が一枚だけ置かれている。

 赤黒い液体がその平たい器を満たしている。

 それは酸化した人間の血だ。

 途端、四恩は自分が何故、まず机の上の物を見たのか電撃的に理解した。

 座っている者が誰だか理解したくなかったからだ。

「結乃――わたしは――」

 死んだはずの結城結乃が、四恩の座ろうとしていた椅子に腰をおろしていた。

「わたしは――悪くない――」

 結乃の首は完全に折れていた。だから彼女は四恩を見ることもない。血液の波々と注がれた大皿を見詰め続けるより他にはないのだ。いや――いや――! 見てすらもいない。その眼球は潰されて、眼窩もまた赤黒い液体に満たされている。四恩はトレーを落とす。静かな食堂内に落下音が響き渡る。食堂内の誰も彼もが四恩を見る。亡者であるはずの結乃も。

 しおんちやあん。

 結乃が言うと、その口の中が露わになる。歯は全部引き抜かれている。桃色の口腔に、四恩は大きく息を吸う。絶叫の予備動作。

 いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい――。

 叫び声があった。だが四恩のものではなかった。隣の席に座っている少女が叫んだのだ。

 少女は右の手首に小さな巾着袋のようなものを下げている。袋には「不穏時」と書かれた布が縫い付けてある。中には一三七部隊内に設置された、高度身体拡張者メンタルクリニックで処方された抗精神病薬のシートが入っているのだろう。少女は四恩の存在そのものが面白くてたまらないというように、目を見開いて四恩を凝視し、「いいいいっいいっいいいいい――」と声を挙げる。

 近くにいた自衛軍の兵士が四恩を怒鳴りつける。

「何をしている! はやく席に着いて食事を始めろ!」

「でも――」

「デモもストライキもサボタージュもボイコットもあるものか」

 彼は肩から下げていた自動小銃をしっかりと掴みながら、引き続き怒鳴った。

「『御立派ですこと!』」

 四恩と自衛軍の兵士との沈黙を、あの「不穏時」の巾着袋を下げた少女が破った。少女は机の上に立ち上がった。彼女の食べていたオートミールが蹴飛ばされて床へ落ち、四恩の落とした食事と混ざり合う。

「『それも御自分の恐怖心が生んだ絵姿、あのとき空を横ぎってダンカンのところへあなたを導いたという短剣と同じこと。そんな、どなったり、わめいたり、大仰な身ぶりをなさって、恐怖も何もありはしない、子供じみたお芝居です』……『恥ずかしくないのですか! どうしてそんな顔を! 何もありはしませぬ、ただの椅子です』」

「なんだここは。頭のおかしいガキばっかりじゃないか。いい加減にしろ。俺だって奨学金の返済さえできてりゃこんなところにいないぞ」

「『おい、警鐘をならせ! 風よ、吹け! 破滅よ、落ちかかれ!』」

 少女はいよいよ机の上で踊り始めた。身体能力を活かした、見事なコサックダンスだった。

「うるさい。さっさと薬を飲め」

 根本的な所で面倒見の良い質らしく、兵士はオートミールの入っていた器を少女の机に戻した。そのあとで四恩の原材料の水準にまで散乱した食事をトレーにかき集めた。彼がトレーを叩きつけるようにして置くと、結乃の亡霊は雲散して霧消した。

「お前もだ。さっさと飯食って薬を飲んでクソして寝ろ」

 彼にそう言われて、四恩はようやく、自分の手首から「不穏時」という表記のある巾着袋がぶら下がっていることを思い出した。

 いいっいいっいいっいっいいいいいいいっいいっいいいいいい――。

 あの池袋の任務が四恩の遂行した直近の任務だった。あれから何日経ったのか、そんなことも彼女は把握できていなかった。いつでも眠いが、いつまでも眠れない。彼女は典型的な不眠症状を呈していた。不眠はいとも簡単に精神を破壊する。魔女狩りでも奪眠拷問が採用されていたほどだ。わからないのは、死んだはずのが結乃が時と場所を選ばずに現れるから眠れなくなったのか、眠れなくなったから死んだはずの結乃が現れるのかということだ。

 いいいいいいいいっいっいっいっいいいいい――。 

 いずれにせよ、彼女は休暇を言い渡され、独居房のような自室と食堂と基地内のクリニックを彷徨う生活をしていた。

 いっいっいっいっいいいいいい――。

 一三七の基地に来たばかりの頃より、よほど酷い状態だ。これではいつ契約解除ということになるかわからない。もしもそうなれば、身体の一部を含めた所有物の全てを部隊に返還し、文字通り裸一貫で路上に放り出されることになりかねない。無論、それは最も極端な場合であり、基本的には国内研究機関をたらい回しにされ、被検体として自らを思い知ることになるのだろう。

 考えて、四恩は頭痛の訪れを予期し、両のこめかみを自分の指で軽く押した。そのまま何も食べず、指定された食事時間を使い切り、彼女は指定された壁の指定された返却口にトレーを戻した。残飯の量も計測されているので、次の食事の量はもとより今後の契約更新にも影響するだろうと一瞬思ったが、どうでもいいという思いの方が勝った。

 高度身体拡張者にも餓死はできる――?

 宿舎には各階に蜂の巣のように少女たちの部屋が用意されており、彼女は最上階の角部屋を充てがわれていた。部屋は評価に応じて割り当てられるようになっている。休暇が長引けば、下階に引っ越すことになるだろう。

 廊下に人だかりができている。少女たちが廊下に出ていることは推奨されていない。理由は食堂方式が渋々採用されたのと同じだ。だから人だかりが自衛軍の兵士たちでも驚くことはない。しかし自衛軍の兵士たちがそこで人だかりを成していることはありそうもないことだ。

 兵士たちは四恩のすぐ横の部屋に出入りしている。

 水青の部屋――。

 部屋の入口は横開きの分厚い扉だ。その前に、ダンボール箱が三つだけ積み上げられている。

 すぐに脇を通り過ぎるべきであるのに、四恩は彼等の作業風景に目を止めてしまう。

 壁紙を引き剥がし、ベッドを引っ繰り返している。

「なにを――」

 四恩が思わず声に出すと、三つのダンボール箱を器用にも一人で持ち上げた兵士が応えた。

「死者に部屋はいらないだろう?」

 水青が死んだということを理解するのに、四恩には一つの宇宙の寿命ほどの時間が必要だった。それは兵士たちが作業を終えるには充分に過ぎる時間であり、四恩は独り、かつて水青の部屋であり、今では単なる空洞と化した部屋の扉を見詰めていた。

 無機質な扉に浮かび上がったのはナナフシのように長身で撫肩の男の姿だった。本部長との面談の後、宿舎の前で会った内務官僚だ。彼が水青に何かを依頼した。四恩が断った、何かを。四恩は彼との会話を思い出そうと努めた。彼は確か――。

「『消えろ、消えろ、つかの間の燈し火!』」

 四恩とはちょうど反対側の廊下の終わり、エレベーターのすぐ前に、食堂で見た少女が立っている。身振り手振りもつけて、四恩に向かって絶叫していた。

「『人の生涯は動きまわる影にすぎぬ。あわれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切ったり、喚いたり、そしてとどのつまりは消えてなくなる』」

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