1-3-1 第二の攻撃――新宿

 少年と中年の男とがテーブルを挟んで座っている。彼らのすぐの横の壁は一面が硝子になっている。その向こうには、星々を地に引き摺り降ろしたような夜景がある。

 男は星々の末路に興味を示しているのか、横を向いたまま微動だにしない。男の目は夜景よりも輝いて生気に満ちている。口の両端が跳ね上がって、三日月を描いている。見下ろしているものの何もかもが面白い、といった顔。フランネルのスーツを着込んでいる。足下にはアタッシュケース。いかにもビジネスマンの風情。

 少年の方はもっぱらテーブルの上に並んだ料理の数々を胃へと放り込むことに忙しい。スプーンやフォークの使用すら時間の浪費と感じるのか、彼は手で食べ物を掴んでは口に詰め込んでいる。食欲の怪物のような彼の態度はしかし、透き通るように白い肌、弓のように細く引き締まった身体、顔による性別の判断を困難にするほど均整のとれた顔のどれとも明らかな矛盾をきたしている。服装――黒いスラックスに白いシャツ。さらにモッズコートを羽織っている。

 ここは新宿の超高層ホテル内に出店しているレストラン。フォーマルな服装の恋人たちが愛の言葉を囁きあう中、コートを羽織ったままの大食い少年と、少年のマナーの欠如を咎めることもない同席者の男の存在は異彩を放っている。

「おじさん、もっと注文してよ。こんなんじゃ全然足りない」

 男にそう訴えてから、少年は食べ尽くしたばかりの大皿の両端を掴み、その表面を舐め始めた。男がようやく、夜景から目を離す。少年の手から大皿を奪い、テーブルに戻す。少年が上目遣いに男を見る。

「我慢しなさい。間もなくメインディッシュの時間だからね」

 男が腕時計を見る。少年も覗き込む。一つの腕時計を共有する二人のテーブルに、給仕がワイングラスを置いた。

「ワインなど注文していないのだが」

「我々からですよ、『おじさん』」

 給仕の微笑み。男も微笑んで応じる。給仕は二個のグラスにワインを注いでなお、その場に微笑したまま立っている。男が腕時計を今一度、確認する。「なるほど」言って、グラスを掲げる。「ありがとう。いただくよ」彼が顎の先を僅かに動かして、少年にもグラスを取るように促す。少年はグラスに目をやっただけだ。液体にはあまり興味がないらしい。

「何に乾杯しようか」

「戦争に」

「良いだろう。君たちの戦争に!」

 おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――。

 夜景が赤に染まった。強化ガラス一枚を隔てた空間に火の柱が立ち上がり、煙を引き連れて天を目指していく。すなわち大爆発、大爆炎と大爆煙。ドレスコードとマナーを乱す者たちに厳しい視線を送っていた、レストラン中の恋人たちが叫び、狼狽え、レストラン内は騒然となる。机にしがみつくもの、席を立ってレストランから出ようとする者、携帯電話を耳に当てる者等々。警報が鳴り始め、彼等をさらなる恐慌へと追い立てる。

 そうした状況下でも男はワインの味を堪能しているし、少年は椅子の上に立ち上がって炎の起源を見ようとしている。

「ホテルの正面入口に自動車を置いた。即席爆発装置を積んだ自動車をね。IEDさ。君もアレッポでよく見ただろう?」

「うん。はやく日本でも普通のことにならないかな」

 グラスの中身を瞬きの間に飲み干した少年は、ボトルに手を伸ばしていた。

「残念ながら、そうはならないだろう。そんなものでは済まさないからだよ、我々が」

「『わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ』」

「――『わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁を姑に。こうして、自分の家族の者が敵となる』」

 少年と男はグラスとボトルを打ち鳴らす。些か粗野で、時間差のある乾杯の儀礼。だが男はそれで満面の笑みを作り、グラスを大きく傾ける。少年はボトルから自分の口の中へとワインを注ぐ。

 男と少年がそうしている間、給仕は彼等のテーブルの下にあるアタッシュケースを開けていた。アタッシュケースの中身――カラシニコフ自動小銃近代化モデルと弾倉5個。

 いよっしやあああああああああああああああぶちころするぞおおおおおおおおおうぇうぇっうぇっうえええええええええええいいいいいいいい――。

「喜んでもらえたようで、私も嬉しいよ」

 まずはカラシニコフ自動小銃を腰だめに構えた給仕という視覚情報に、レストランの客たちは戸惑い、唖然としているようだった。その一瞬が彼等から逃走のための時間を奪い取った。

 彼等が階下で起きた爆発と目の前にいる武装して絶叫する給仕の存在を結びつける前に、カラシニコフ自動小銃近代化モデルが火を吹き、秒速730メートルの銃弾を撒き散らす。銃弾は、人間とテーブルと椅子と食事と壁と窓ガラスとを、どのようにも区別しなかった。鋼鉄の暴風雨が全てのものを粉々に砕く。肉が、木が、漆喰が舞い踊る。やがて時間と重力の合せ技がその舞踏を終わらせると、床一面に赤い花が咲き誇っていた。その花に埋もれるようにして、まだ生きていた何人かがレストランの入り口へと、穴の開いた脚や橈骨と尺骨が剥き出しになった腕を動かして逃げようとするが、かの給仕と同様にカラシニコフ自動小銃近代化モデルの引き金に指をかけているホテルマンが立ち塞がった。床に這い蹲って衰弱した小動物にも似た呻き声を上げる者たちの頭に、ホテルマンは丁寧に銃弾を撃ち込んで回った。

「素晴らしい! 『おもてなし』というやつだね!」

 男が盛大に拍手する。少年は黙って舌舐めずりしている。

「速く来いよ! 面白いことになってるぞ!」

 天井にカラシニコフの銃口を向けたホテルマンが叫ぶ。二人は死体を踏みつけながらレストランから出ていった。

 男は立ち上がってネクタイを締め直す。

「帰っちゃうの? もう少しいたら?」

「ああ、私はもう帰るよ」

「見ていけばいいのに。楽しいよ」

「私にも私の仕事があるからね。それに、君の仕事をスクリーン越しに見るのも面白いよ。池袋も最高だった」

 少年と男はレストランを出た。エレベーターホールに立つと、そこではもう悲鳴と断末魔とが木霊している。エレベーターはもう息をしていない。二人は階段の踊場に行く。階段もその密閉性のために人々の声と足音が充満している。

「誰か付けようか? 通行証代わりに」

 少年は男がどうやってこのホテルから出ていくのか、何も知らなかった。彼がどうやって諸々の武器を持ち込んだかを知らないことと、それはパラレルだった。

「必要ないよ。モラルというチョッキを着ているからね」

 二人はそこで別れた。男は下へ降りていき、少年は上へ上がっていく。

「『わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない』……」

 レストランは最上階にほど近く、階段を降りてくる人間にすれ違うこともなかった。

「『また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない』……」

 最上階はワンフロアで一つの部屋になっている。階段を上がるとすぐ、ドアの向こうに鋼鉄製の柵が降りていた。その奥にはさらにまた鋼鉄製の壁が見える。ホテルの防衛機能が全面展開していた。

 それでも、少年のような侵入者は、どんなセキュリティの専門家も予期できるものではない。彼の足下で小さく電撃が跳ねると、柵も壁も、それぞれ天井と床に消えてしまった。

 壁が消えると同時、その裏に隠れていた黒いスーツ姿の男二人が短機関銃を彼に向けた。

 ヘッケラーウントコッホ社のMP5はなるほど各国特殊部隊に採用された高性能な短機関銃ではあったが、少年の前では水鉄砲と変わらない。

 光の鞭が彼に到達する軌道の銃弾を予め撃ち落としていくような現実の前では、水鉄砲と小型火器の差異など微細なものだ。

 結果、彼等が合計64発の9ミリパラペラム弾を撒き散らした後でも少年は微笑したままその場に立っている。彼等が自動小銃用の弾薬以上の何かを持ち出すことを期待するかのように。小首まで傾げて。

「高度身体拡張者……」

 MP5の銃口を床に向けて、脱力した様子の男たちが歯を磨り合わせながら呟く。

 恐慌状態に陥った彼等がスーツの懐に手を差し込むのと同時、少年は歩みを再開した。腋の下にホルスターで吊り下げられるような武器に、殺し合いの快楽と悦楽を求めるのは困難だった。彼は自らが高度身体拡張者であることを、彼等に確信させることにした。

 おうおうおうおうおうおおおうううおおおおおおおおおお――。

 またもや白い光が迸ると、その光は彼等の眼球の水分を蒸発させた。急速な内容物の膨張に強膜が弾性限界を迎える。彼等の目は爆発し、液状化して眼窩から飛び出した。

 おうえええええええええええ――。

 黒いスーツでは飛び散った鮮血も目立たず、視覚的面白みにかけた。少年は悲鳴を背後に、フロア最奥のベッドルームに向かった。

 部屋にはキングサイズベッドがあり、その向こう、窓際に一人用のソファが置かれている。そこには陸上自衛軍の軍服を着た男が座っている。彼は振り返って少年を一瞥する。一瞥して、サイドテーブルの上のロックグラスを取る。呷る。音を立ててテーブルに置く。

「『普通なら、いかなる過去も過ぎ去ってゆく。過ぎ去らないというのは、何かまったく例外的なことであるに違いない』……。お前は何故、今、ここに立っている?」

「何故? 自由だからかな。ぼくは自由になったんですよ、大佐」

 少年は溌剌とした態度で軍人に答えた。

「自由? 自由だと?」今一度ロックグラスに手を伸ばす。大佐の口は少年への嘲りで歪んでいる。「主人が変わっただけのことだろう。お前たちは根っからの奴隷――」

 大佐より先に、少年がグラスを取った。少年は腕を大きく振り上げ、大佐の頭頂部をグラスの底で打つ。グラスが割れる。テーブルの上の灰皿を取る。大佐の後頭部を灰皿で打つ。大佐は床に崩れ落ちる。少年は大佐の上に跨って、顔面を鷲掴みにする。大佐の血と汗とで手が滑らないように、皮膚を破り、頭蓋骨へ指を突き刺す。そして頭を床に叩きつける。何度も、何度も。重く鈍い音が無くなるまで。何度も、何度も。

 靴の踵で大佐の頭を完全に肉骨粉にした後で、少年はまだ大佐の温度が残るソファに座った。背もたれの縁に後頭部を押し当てる。顔が天井へ向く。目を閉じる。

 爆発音――建物が揺れる。発砲音――甲高い悲鳴。爆発音と発砲音――鬨の声。

 彼は感じた。彼がこの上なく自由であることのできる領域の生成を。

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