1-2-3 面談
観音開きの扉の前に、四恩は立っていた。四恩の身長の七倍ほどもある、木製のそれが陸上自衛軍身体拡張技術研究本部長の執務室の出入口だ。
呼吸が深くなる。肩に力が入る。
ノックを逡巡する四恩を告発するようにして、内側から扉が開き、一人の少女を吐き出した。四恩と同じように貫頭衣を着た水青だった。
水青は一瞬、立ち止まった。四恩は水青の口の微細な動きを認めた。それで、黙したまま水青の喉の震えるのを待った。だが水青は何も言わなかった。ただ四恩の目を真っ直ぐに見詰めていた。
しばらくそうしてから、水青は口を真一文字に結び、背筋を伸ばして歩きだす。彼女は無言のまま、四恩の脇を通り過ぎた。四恩も無言で応じた。
扉の向こうは、広大な空間だった。真反対の壁一面が全面ガラス張りになっている。そのことがまた、広さの印象に寄与していた。調度品は窓の前に置かれた、机と椅子だけだ。部屋の大きさのために机は異様に小さく見える。しかし、その後ろで椅子に座っている男と比較すれば、四恩のセミダブルベッドよりもサイズが大きいことがわかる。
岩井悦郎本部長は椅子に深く腰掛け、机には向かわず、窓の外を見ていた。
机の上に置いてある物がはっきりとわかるぐらいに近づくと、彼は口を開いた。
「国文学者にして文芸評論家の前田愛によれば、明治維新に引きつづく約四半世紀は日本人の読書生活が大きな変革を迫られた時期であるらしい。そして、その変革は次の三つに要約されるという―—」
置いてあるのは数冊の本だった。二つの塔に分けて、積み上げられている。
「第一に、非個性的な読書から個性的な読書へ。第二に、共同体的な読書から個人的な読書へ。第三に、音読による享受から黙読による享受へ」
左の塔――大西巨人『神聖喜劇』、大岡昇平『野火』、野間宏『真空地帯』、レマルク『西部戦線異状なし』、トランボ『ジョニーは戦場へ行った』、ヘラー『キャッチ=22』等々。
右の塔――ヴォネガット『プレイヤー・ピアノ』、オーウェル『1984』、ハックスリー『すばらしい新世界』、ザミャーチン『われら』、プラトーノフ『土台穴』、海野十三『十八時の音楽浴』等々。
「では今日の読書生活はどうだろうか? IT革命とGNR革命の経た現代は?」
四恩はその塔の部品である全ての本に、背表紙の日焼け具合に見覚えがある。というのは、いずれも明らかに、宿舎の四恩の部屋、彼女のベッドの下に隠していた本だったからだ。
「お前はどう思う?」
「なにもおもいません」
「『何も思わない』? 何も思わないことなど不可能だ。思考の否定もまた、思考なのだから」
「訂正します。わかりません」
「『わかりません』? 自分というサンプルを使って考察してみてはどうだ?」
「わたしは――」
四恩は言葉を詰まらせた。何を言えば、岩井が満足するのかわかなかったのだ。彼は椅子を回転させて、四恩の方に向いた。
厚い唇に、濃い唇。黒の丸眼鏡。脚を組み、組んだ膝の上で本を広げている。背表紙――J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』、野崎孝訳、新潮文庫。
「今日の読書生活は電子書籍の発達により、テクストがその他のメディアと並置され競合する状態になったことから、殆ど絶滅が危惧される水準にまで縮小した。いや、最早それは読書生活というカテゴリーで指示できるような内容ではなくなっている。ただ他方で、こうした物理書籍は――」
岩井は机に本を放り投げると、また窓の方に向き直った。
「――その入手経路が電子的なそれに比して秘匿性を保っており、反社会的な読書を可能にする重要な条件になっており、絶滅にはまだしばらく時間が必要だ。この本の入手経路は?」
「現場で――」
「現場で
御厨は水青の名字だ。
「はい――」
「そうか。ところで、四宮、お前は高校に進学したいか?」
「はい」
「進学して、どうする?」
「一所懸命勉強します」
「『一所懸命勉強します』か。お前は仕事もよくやっている。座学も高得点を維持している。高校に進学させてやりたい、と思えて来るよ。勿論、その場合は通学も許可することになる」
一三七では、四恩のような高度身体拡張者は実験用の動物と連番のIDを与えられるが、それは生誕に際して与えられるマイナンバーの失効を意味しない。彼ら高度身体拡張者の児童は二つの身体を持っているのだ。彼らが一三七の任務に従事し、一三七の訓練を受けている間、マイナンバーに紐付けられる通学記録もまた更新され続けている。一三七は、多額の「講演料」を支払うことで、飯能市内の教育機関に高度身体拡張者の通学記録を作らせていた。それは超少子高齢化に悩む学校法人にはこの上ない基地からの恩恵だった。この提携は高校まで用意されているが、本部長の判断如何では、高校入学から、実際に通学することが許される場合がある。
「ありがとうございます」
「高校へ行って、どうする。その後は」
「大学へ行きます」
「どうやって? 学費をどうやって払う?」
「わかりません」
「『わかりません』か。大学へ行って、どうする」
「わかりません」
「『わかりません』か。就職する、というのはどうだ?」
「就職します」
「どうやって? 就職のためには身元の保証人が必要だ。身元の保証がなければ、テロリスト予備軍ということになる。そしてテロリスト予備軍の者を雇用したい企業などありはしないのだから。それで、どうやって?」
「わかりません」
「『わかりません』か。四宮、お前はわからないことばかりだな」
胃が、ある一点へ向けて急速に収束するのを感じた。口の中が乾き始めた。瞬きの度毎に、顔をしかめてしまう。腋の下を流れた冷たい汗に、彼女は身震いした。この基地の外で生きていく方法を、生き延びる方法を何一つ知らない。知らないのに、そこに焦がれている。その自らの愚かさに、彼女は代謝のレベルで乱調し始めた。顔が熱い。
「私はお前を高校へ進学させ、通学させてやることもできる。お前を大学へ進学させてやることもできる。その後の職業も用意してやることができる。今、こうして、お前に衣食住を提供しているように、な。お前は私の慈悲により、安全で快適な生活を送ることができるし、できている。――次のラマダーン入り前夜、イスラーム・ユニオンの設立が宣言されるのは知っているか?」
「いえ」
ラマダーン。ヒジュラ暦第九月あるいは「断食月」。その期間、全ムスリムにとっての義務である「断食」が行われ、太陽の出ている間は食事を断つことになる。「断食」から喚起されるイメージに反し、中東では――ムスリムが多数派の地域では祝祭的な期間になるらしい。
「対イスラーム国で大同団結したイスラーム協力機構は二千十五年にはイスラーム軍事同盟を発足していた。その大半は典型的なレンティア国家であり、近年の化石燃料価格の下落で、国境を維持するコストに耐えられなくなりつつある。そこで、イスラーム・ユニオンというわけだ。単一の言語と安価な化石燃料と膨大な若年層を有する、超巨大国家の誕生だ。イスラモフォビアに狂った連中でなければ、誰もが取引を望むだろう。この新しいカリフ制の共同体と欧米先進国の共存はさしたる障害もなく可能になるだろう」
「それがさきほどまでの話と、どう関係するのですか?」
「全ては関係している。蝶の羽ばたきが竜巻を起こすこともある。全ては関係している。そんなこともわからないのか? 四恩という名前なのに、そんなことも?」
「もうしわけありません」
「全ては関係している。中東に対テロ戦争の名目で派遣されている我軍を撤退させなくてはならなくなる。何故なら、国外で展開されている対テロ戦争の内実はイスラーム過激派との低強度紛争だからだ。軍の再編が具体的な日程になる日も遠くはない。そうなれば、ここも無傷ではいられない。国外にいる兵士が、ということは高度身体拡張者も、全て戻ってくる。この基地に男子寮はあったか?」
「ありません」
「予算を縮小する方向で軍の再編があれば、お前たちの誰か……、いや、お前をここから放り出すこともありえる。わかるな?」
「はい」
「その時、お前は身体拡張の費用、それから身体拡張後の諸費用を一切の公的支援なしに自力で調達しなくてはならなくなる。その上で生計を立てなければならない。勿論、ここのキャリアについては、どんな履歴書にも書くことはできない。さて、お前は生計を立てることができるか?」
身体拡張者の帰還兵が「テロ」に至る道筋はいつも決まっている。身体拡張後、幸運にも戦場で身体拡張の費用を返済できるだけの期間を生き延び、喜び勇んで帰国するも、やはりそこには彼の就労の機会はない。そうして求職活動が長引くにつれ、身体拡張のために投与した「還相」の抑制剤の費用が支払えなくなり、社会への憎悪に加えてバーストゾーンへの緩慢な、しかし確実な移行が始まる。そして最後には憎悪とバーストゾーンへの移行の相互作用としての「テロ」が現象する。身体拡張者でさえ、こういうことが珍しくない、この今。高度身体拡張者に軍の後押しなく生計を立てる方法など――。
「わかりません」
「『わかりません』か。嘘だ。お前はわかっている。それは、不可能だ。お前の内蔵を全て売り払っても、まだ足りない。角膜も売るんだ。指もいいだろう。そういうのが好きな変態のクズもいる。しかし忘れていたが、一三七から離脱することになれば、その記憶を含めて、一三七から提供されたもの全てを返還しなくてはならない。お前なら、その手足も返還しなくてはならない。できるか?」
「できません」
「そうだ。できない。それが『事実』だ。お前はここの外では生きてはいけないのだ」
「そろそろしごとの話をしませんか?」
四恩は感情を抑えて言った。言ったつもりだった。会話の主導権を握れずとも、自分が全くどんな動揺もしていないと示すことで岩井に細やかな復讐を試みたのだ。
「仕事の話?」
岩井が質問に質問で返したことを皮肉ろうと言葉を探すが、その間に彼は椅子を回転させて四恩の顔を見た。四恩も負けじと、目を合わせ、彼の顔を観察した。
「私は始めから仕事の話しかしていない。全ては仕事の話だ。何故なら、お前の人生は全面的に仕事に依存しているのだから。それなしにはお前の人生は成り立たないのだから」
彼の顔には怒りもなにもなく、あるのは嘲笑だけだ。口角を僅かに上げた、その表情。四恩は自分の声が上擦っていたことを認める。
「池袋の一件、ご苦労だったな。この私が、お前を労おう。私はあの事件について、こう考えている。三人の身体拡張者を含む帰還兵24名が、全くの自己責任だと言うのに、仕事にありつけない鬱憤を、この民主主義の平和国家に適応できないフラストレーションを解消せんがためだけに無辜の市民を約四百人殺し、約三百人傷つけた。そこで我々一三七の優秀な特殊兵器である高度身体拡張者に鎮圧された。どうだ、私のサマライズに事実誤認はあるか?」
「
「そう! 結城結乃!」と、岩井が机を一回叩く。「そうだ。彼女の死は悲劇だ。だが彼女は任務を達成した。死の間際、敵を冥府への道連れとした」
「事実誤認はありません」
「だが、あると言う者が二人または三人いる」
「だれとだれとだれですか」
「まずは内務省の役人だ。我々は今回の一件を典型的なローン・ウルフ型テロと考えているが、彼の方では少し違うらしい。ただ、彼の見解と内務省の見解は同じではない。彼の個人的な見解に過ぎない」
二千二十年、東京オリンピック開会式の参列者達が一個の巨大な挽肉の塊となった、そのさらに前に内務省は復活していた。「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律案」が可決成立すると、その円滑な執行のために歴史の墓場から呼び戻されたのだ。その奇跡は保守派を大いに喜ばせた。だが東京オリンピック連続爆破事件に際して、内務省が後手に回り、ついに軍が中東に派遣されるに及んで、「テロ」の管轄、ひいては社会のセキュリティの管轄は完全に防衛省が握ることになった。軍隊が警察化した現在、内務省には戦前のような力は無い。
「次に、御厨だ。御厨はあの場に男子の高度身体拡張者がいたと主張している」
「男子の――」
「馬鹿馬鹿しい。そんなことがありえるものか。一体、どうやって日本に入る? 潜伏中、どうやって生活する? それに日本以外には『還相』どころか身体拡張技術を採用している国はない」
日本以外にも身体拡張技術と呼ばれるものは存在している。だが日本のように、ナノテクノロジーの直接の産物である人工細胞による拡張を行う国は存在しない。GNR革命もまた、この島国ではガラパゴス化している。大方の国では「義体」すなわち義手や義足の延長に身体拡張を行うことが一般化している。だからこそ、砂漠地帯の軍事行動に自衛軍は圧倒的なプレゼンスを発揮するのだ。
「四宮、お前は三人目か? どうだ? まさかこの――」机の上のサリンジャー邦訳本を叩く。「まさかこの――大量に出版された本の一冊の接収を根拠に、御厨と同じようなことを主張したりはしないだろうな? あるいは、彼らが派遣先で一三七の特殊兵器と集合写真を撮っていることを根拠に」
隠していた本の陳列、進学と通学の希望の有無の確認、イスラーム・ユニオンの発足による全般的失業の危機の長い説明、そしてこの基地の外では生活どころか生存の余地のないことの再確認。一連の無関係に思われた話は、この今、ここで、四恩が次のように答えるための地均しだった。
「はい――水青は結乃と親しかったから現実を否認しているのだと思われます」
「なるほど。では、行け。『なんぢが爲すことを速かに爲せ』。宿舎の前で内務官僚がお前を待っている。我々には捜査妨害の意志はない。我々には疚しいところがない。そんな意志が意志されることはありえない。そのことを彼に教えてやれ」
言い終えて、岩井はまた窓の方に向いた。四恩もまた、一三七に来たばかりの時に教え込まれて身体化した回れ右で、彼に背中を向けた。
「お前は自由だから、ここにいる。自由ではないから、ここにいるのではない」
その彼女の背中に岩井が言った。返事など、彼は予期していないだろう。そんなものは必要ないのだ。それは、それが、それだけが、彼女がここにあり続けることを説明するロジックなのだから。
わたしは自由だからここにいる。わたしは、自由だから、ここにいる。わたしは――。
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