1-2-2 夢から夢へ
四恩は冷たいベッドの上で目を覚ました。
口元にはペストマスクを想起させるマスクが嵌められていた。マスクは、その嘴にも見える部分からホースを伸ばしている。ホースはベッド下へと彼女の呼気を導入している。
それは催眠ガスを僅かずつ四恩に吸わせるための機械だった。白衣を着た若い男が彼女からマスクを剥ぎ取る。その乱暴さで、彼女はようやく覚醒した。
任務後の検査及び「還相」抑制剤の投与が終わったのだ。定期的な検査と抑制剤の投与に加えて、任務後にも同じことが行われることになっている。
ベッドの縁に腰掛ける。目を擦る。サンダルを履く。たったこれだけのことが、酷く億劫に感じた。
〈四宮四恩は可及的速やかに本部長室へ〉
まだ重い頭の中、無線通信の声が執拗に反響した。可及的速やかに。制服に着替える時間も、ないらしい。四恩は今、貫頭衣を着ている。それは灰色のミニワンピースに見えなくも、ない。しかし必要に応じて検査の担当医が容易に脱がすことができるようになっているのだから、ミニワンピースよりもずっと無防備な服装である。適切な衣服が可能にする尊厳というものが、この世には確かにある。
「四宮さん、うなされていたけど? また、同じ夢?」
部屋から出ていく間際に医師から声をかけられた。
「前にカウンセラーに訴えていたことがあるね?」
「はい――」
まだカウンセラーなどというものを信用していた、あの頃。思い出して、四恩は自分の顔の熱くなっていくのを感じた。
それはまだ、四恩が厚労省児童活躍局の養護施設「活躍の園」から一三七に配属されたばかりのこと。「活躍の園」を出る時になっても、彼女の拡張されたはずの身体は、しかし手足の欠如を埋めただけで、「高度」身体拡張者の特徴を何も示さなかった。それで、彼女は「わたしたちの街でテロは許しません」というポスターのモデルといった仕事を充てがわれていた。
この仕事に、高度身体拡張者は、まさにうってつけの存在であった。というのは、彼ら皆一様に容姿をも「拡張」されているからである。その拡張も含めて、「高度」身体拡張者の名前を冠されているのだ。
しかし、こうした仕事には何の展望もない。いずれはさらに若い世代に奪われることが間違いないのだ。その要因には「容姿」への需要の変化もあるし、加齢ということもある。高度身体拡張者の花形はやはり一三七の実働部隊に組み込まれ、前線に出ること。そして一三七の上層部に記憶されること。
四恩は仕事の展望のなさ、そして増え続ける新人たちに脅かされ、不眠を患ったのだった。時折訪れる意識の中断も、悪夢のせいで台無しになった。父に、そして母にも捨てられ、自分の排泄物の中に溶けていきそうになっていた、あの一週間の夢のせいで。
そうした症状を部隊の指定するカウンセラーに訴えたことがあった。結局、カウンセラーの言葉は何の役にも立たず、こうして部隊関係者全員に共有されることになった。
「最近、ちゃんと睡眠はとれているのかな?」
「はい――」
四恩は部屋を出た。嘘はついていない。眠れない? そんなことは、ない。あの悪夢も、たまたま見ただけのこと。現状に何の不満もない。身体に不調など出るはずがない。
サンダルと素足で音を鳴らしながら、四恩は廊下を歩いた。重力を意識させながら、一歩一歩、リノリウムの床を踏みしめるように進んでいく。
廊下には窓がある。高層階がゆえに、一三七の基地全体を囲む高い塀の、その外まで見渡すことができる。彼女はその外へ出ていく自分を想像してみる。任務などではなくて。もっと、楽しそうな――いや、目的など必要ない。無目的に、ただ、外へ出る。つまり自由に――。
しかし外へ出たとしても、四恩に生存の余地はなかった。マネーにおける対テロ戦争のためという名目で、マイナンバー制度は国内経済取引に欠かすことのできないものにまで発達していた。マイナンバー無しには物を買うこともできない。彼女のマイナンバーは一三七の管理下にあった。管理下とは、マイナンバーカードを本部長の許可無しには受け取ることができないという意味だ。
つまり本部長の許可無しには物を買うことすらもできない。
その単純かつ厳然たる事実、ずっと前から知っていたはずの事実を改めて認識したことで、観念の連合が炸裂した。四恩は壁の外に出たはいいが、何処にいけばよいかもわからず、貫頭衣の裾を押さえて蹲る自分を幻視した。
任務に精力的に取り組み、大人たちに気に入られ、学歴を獲得する機会に恵まれるより他には、ここを安全に出ていく方法はない。
あるいは――四恩はもう一つの方法に思い至った。
あるいは――結乃のように死んでしまう、か。
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