1-2-1 自分の排泄物に沈む少女

 四恩は冷たいベッドの中で目を覚ました。

 強い異臭に包囲されていることに、気づく。彼女は咳き込む。

 部屋全体に臭気と瘴気とが充満している。

 彼女は、こんな部屋からは早く出ていこうと思う。

 そのために、まずは起きること。起きてベッドから降りること。

 だが四恩の身体は彼女のどんな命令にも動くことがない。

 何故なら、彼女は手足を持っていないからだ。

 ようやく、四恩は先天性四肢障害児である自分の身体のことを思い出した。顎の先を胸に近づける。目線をできる限り下へ動かす。そうして、手も足もない自分の身体が見た。どんな労働にも堪えず、生産活動から追放された、無用の身体。社会の寄生虫。父と母のお荷物。

 出生前診断は出生の前に彼女のような子どもの生誕を予測できる程度にまで、発達していた。しかし彼女の両親は、それをしなかった。命の選別への忌避か、料金のためか。ともかく、彼女は彼女の母の子宮で手足を例外として成長し、ついにはそこから出た。母の手に抱かれた時には彼女の運命は既にはっきりとしていた。腕は二の腕から先が一本の棒でしかなかったし、脚についても同様だった。だが骨はそんな条件を知らずに、伸び続ける。やがてそれは幻の手足を形成しようと、皮膚を突き破ることになるだろう。後に、そう判断した医療機関によって、彼女の奇形の手足は切断された。

 手足の欠如を見ようという四恩の試みは、彼女にベッドの冷たさの由来を教えた。

 それは彼女の尿と、糞便と、汗の混合物だ。

 一週間前—―。四恩の母は四恩を置いて、家を出た。その足取りは軽かった。母はついに解放されたのだ。四恩という重荷から。その分だけ母の足取りが軽くのは、四恩の栄養失調で朦朧としてきた頭でもわかった。

 四恩の父も、妻が出生前診断を行わずに出産することを支持していた。二人は仲の良い夫婦で、ベッドから殆ど動けない四恩には夫婦の仲睦まじい会話が、何よりの娯楽、そして子守唄だった。だが、それも長くは続かなかった。

 黄ばんだ天井が四恩に囁いている。

「『彼らがなんであるかは、彼らの生産と、すなわちかれらが何を生産するのか、また、いかに生産するのかと一致する。したがって、諸個人がなんであるかは、かれらの物質的諸条件に依存する』」

 這い上がるのは困難だが、転がり落ちるのは実に簡単なことだ。四恩の父は高校卒業後、直ちに自動車工場に就職した。日々の労働と細やかな慰安の果てにどうにか作った生活と貯蓄とはしかし、彼が盲腸炎になったことで吹き飛んだ。国民皆保険制度は廃止されて久しかった。

 入院したことで、父は家計を維持できなくなった。退院しても状況は変わらない。仕事は他の者に奪われていた。産業予備軍は無数にいるのだ。そうして四恩と同様、家に入り浸るようになった彼を慰めたのは、四恩の介護に疲れ果てた女の粗雑な性技ではなく、酒と煙草、そして近年になって解禁されたカジノだった。

 家計は燃え尽き、火は家庭にまで及んだ。

 父の母の最後の会話――。

 四恩はそれをベッドの中で聴いた。

「どこ行ってたのよ」

「うるせぇよなんの関係があんだよ」

「そんな言い方ってないでしょう!」

「安心しろよ、甲斐性なしの俺は出てってやるよ」

「この子はどうするの?」

「死なせとけよ、ここで」

 父の顔が天井と彼女の顔の間に割り込んで、彼女を見下ろす。彼の体毛がびっしりと生えた腕が彼女の毛布を剥ぎ取る。彼女は恥じらいを覚える。手足のない身体を見られたくない、と思う。思って、しまう。だがどうにもできるわけではない。

「こいつ、手羽先みたいな手足してやがるぜ」

「やめてよ」

「お前の家系に、こんなのいたか?」

「知らない!」

「じゃあ俺の精子がおかしいっていうのか? え?」

「やめてやめてやめてやめてやめて」

 やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて。

 父は出ていき、母と四恩だけの生活が始まった。

 始まって、すぐに終わった。

 今日、この今、終わったのだ。

 四恩の介護を頼める家族、親類は、東京にはいなかったし、そもそも日本にいなかった。遺伝子に異常のある彼女と彼女の母は「自然科学的」に親類から排除された。救いといえば、その時にはもう祖父母は生者から排除されていたことくらいのもの。四恩の母は、朝は運送会社倉庫作業の「家計補助的労働」、夜は安物の丈の短いチャイナドレスにハイヒールを履き、男たちの横に座って微笑む感情労働を繰り返した。その間に四恩の排泄物は部屋の隅にビニール袋で蓄積されるようになった。四恩は昼間だけ現れる母に甘えた。

 ママママママママママママ。

 その日、つまりちょうど一週間前、四恩は肛門の痒みに繰り返し母を呼んだが、昼間だと言うのに母は玄関に座り込んだまま、四恩のいる部屋に入ろうともしない。

 マママママママママママママママママ。

 母は部屋に入ると、その臭いに一瞬、顔をしかめ、緩慢な動作で四恩の下着に指を這わせた。四恩は下半身の不快感からの解放を予期して、訪れるはずの快楽に身構えたが、その筋肉の緊張は母の怒声を耐えるに役立っただけだった。

 母がその場に座りこむと、大きな声を上げて泣き出したのだ。

 あああああああああああああああ。

 地団駄を踏み、拳で床を叩く。埃が舞い上がるのを、四恩は見た。

 もういやあああああああああああああ。

 それしか、見ることができなかった。彼女が自由になるのは――自由になるのは首だけなのだから。

 やがて体力という条件のためか、落ち着いた様子の母は四恩を見下ろして「あなたは生まれてくるべきじゃなかった」と言った。これが四恩の聴いた、母の最後の言葉だ。母は軽い足取りでアパートから出ていった。

 天井も、囁いている。

「『人の子を引き渡すその人は哀れだ。その人にとっては生まれなかったほうがよかったのだ』」

 かくして四恩は自分の排泄物に溺死しかけていた。彼女の皮膚の方方は炎症を起こし、痒みも耐え難いものになっている。後頭部で自分を支えてみても、ベッドから離すことができるのは首の後ろだけだ。

 パパ……パパ……。

 この一週間、何も食べていない。

 もう分解できる脂肪もない。

 ママ……ママ……。

 四恩は、母の言う通り、自分が生まれてくるべきではなかったことを確信した。

 誰かに依存することでしか生存することができない、寄生虫。

 それが、わたし――。

 だが意識がどんな確信をしようとも、身体はそれを裏切った。四恩は後頭部で枕を叩いた。まだ彼女の生が祝福されていたときに購入したそれは、実によく、その衝撃を吸収した。それでも彼女は枕に頭を叩きつけ続けた。

「助けて……助けて……」

 身体と意識が相互に裏切りあう地平で、少女は孤独に頭を枕に打ち続ける。

「助けて欲しいのかね?」

 気づくと、四恩の顔を覗き込む二つの顔があった。

「たす……」

 これは夢? それとも――。

「たす? なんだね? たす、なんだね?」

 顔の一つが急速に接近して、さらに尋ねる。スーツを着た男。口角が鋭く上がり、口が三日月を描いている。不思議の国のアリスの挿絵にこんな表情をした猫がいたのを、四恩は思い出した。そうして、その記憶は直ちにそれを読み上げてくれた母の記憶へと至った。四恩は呼吸ができなくなり、男の質問に答えることができない。

「たす、なんだね?」

 彼の爛々と輝く瞳に、溺死体のように青ざめた少女が映り込んでいた。

「我々に彼女を助けることはできませんよ」

 もう一つの顔も、接近する。こちらも男だが、迷彩服を着ている。

「『どんなに立派で賢い人間でも、確かに他人から大きな恩恵を受けている。だが』――」

「『だが、本来の姿からいえば、われわれは自らが自らに対して最良の援助者にならなければならないのである』。なるほど、確かにそうだ。それがこの闘争領域の唯一のルールだ。では少尉、我々にできることは?」

「彼女を自由かつ我々と平等な契約主体と認め、契約について説明することです」

 不思議の国の男はしゃがみ込んで、四恩の視界から消えた。鞄かなにかを漁っているらしい。

「軍人さんも役人さんもチンタラしないでくださいよ、その子、死にますよ」

 遠くから別の声。

「黙れ! 契約前の確認事項があるんだ! コーボーで檻に入れてやるぞ!」

 不思議の国から来た男にはすぐ近くで怒鳴り返す人があるのも気にならないらしい。

「それでは、四宮四恩、まずはこの書類を確認して欲しい」

 四恩の胸の上に書類の束が置かれた。それは実に辞典のような厚さがあり、その重さに四恩は咳き込んだ。

「確認できたかね?」

 咳が止まらない。やがて、四恩は血の塊を吐いて書類の側面を真っ赤に染め上げた。

「血判か。前時代的だが、私は嫌いではないよ。では、四宮四恩、君は身体拡張技術の効果を臨床的に確かめる検定へ参加するかね?」

 咳の繰り返しに、四恩は頭痛を覚えた。一回粘液を飛ばすごとに、自分の骨の軋む音が聴こえる。 

「それとも、君の方で救急車とその後の養護施設への入所斡旋、施設維持および利用の費用を直ちに用意するかね? その場合は現金を用意するか、または口座振替のための口座を指定して欲しい。ここは民主主義の先進国だ。君には選択の自由がある」

「さん――」

「さん? スリー?」

「参加、ではないでしょうか。契約のための書類を彼女に」

 さらに胸の上に一枚の紙が置かれた。すぐに四恩の咳で吹き飛ばされて、何処かへ消えた。

「サインしたくないのかね? サインできないのかね?」

「彼女には四肢がありません。署名は物理的に困難であると判断、口頭による意思表示をもってこれに代えましょう」

「厄介な話だね、手足がないというのは。まるっきり達磨じゃないか、これでは」

 口元にマイクが突き出される。

 もちろん四恩は言う。

「さんか――」

「おめでとう、これで君の身体は国家の庇護下に置かれる。君はもはや衣食住に困ることはない。健康で文化的な最大限度の生活が保障されることになる。『死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現れたと言ってもよい』。国家が君に生を与えよう」

 慌ただしく、大勢の誰かが部屋に上がり込んでくる音。今度はヘルメットを被った顔の数多が四恩を覗き込む。四恩は彼らの手で担架へと移される。

 国家の温かな手、国家の毛布、国家の点滴。

 それらが彼女を部屋から連れ出す間際に、彼女は黄ばんだ天井の別れの言葉を聞いた。

「今度は捨てられないようにするんだよ。良い子にして、絶対に大人の期待を裏切らないようにするんだよ。ティッシュとハンカチをいつでも携帯することだよ。うるさく意見を主張したりしちゃだめだよ。夜更かしもだめだよ。だって、もうこうなったら、国家の他には君を現世に繋ぎ止めてくれるものはないんだからさ」

 うん――。

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