第40話 砂のお城 03



 魔女が来るであろう時間まで、あと一時間。

 砦内に戻ったネオナは、訓練場でしばらく剣を振ってみたが、どうにも落ち着かない。彼女は少し迷ったが、高ぶった気をなだめる為、風呂で汗を流すことにした。

 砂嵐に閉じ込められていた間は水が持つか心配されていたので、砦の大浴場は閉鎖され、体は布で拭くのみになっていたのだが、ファルサスの人間が来た時、美しい魔法士の女がついでのように魔法で水を取り寄せてしまった。どうやら転移禁止の魔法など彼女にとってはまったく関係ないらしい。その力の程は恩恵を受ける身にとってはありがたいが、空恐ろしいことには変わりないだろう。


 服を脱いで浴場に入ったネオナは、湯気で曇る中に黒髪の女の背を見出し、ぎょっとした。

 女は浴槽の縁に腰掛けて足を湯に浸しているようで、隣りでは服を着たままの魔法士の女が主人の黒髪を梳っている。従者の方はすぐネオナに気づいて顔をあげ、会釈をしたが、主人は背を向けている為気づかないのか微動だにしなかった。

 ネオナは会釈を返すと、二人から少し離れた浴槽の縁に膝をつき、そこからお湯を汲みだした。横目で黒髪の女を見る。


 柔らかそうな白い肌は、同性でも見惚れてしまうような蠱惑的な輝きを帯びている。はっきりとは名乗らなかったが、彼女もまた魔女なのだろうということはネオナにも分かった。

 そうでなければ魔女であるレオノーラの魔法をああまでも簡単に打ち消せるはずがないし、何よりファルサス国王が魔女を傍に置いて溺愛しているという話をネオナも知っていたのだ。


 魔女の白い躰のところどころに赤い痕が沈んでいるのを見つけて、ネオナの胸は痛んだ。この美しい魔女が彼の情人なのだと、分かっているつもりだったが目の当たりにすると辛い。

 思わず唇を噛みかけて、ネオナはいつの間にか、魔女がじっと自分を見返している事に気づいた。盗み見ていたことに気づかれたのかもしれない。羞恥に血が上る。

 しかし魔女は彼女に対し、怪訝そうに首を傾げただけだった。

 主人の耳に後ろからパミラが何事か囁く。それを聞いたティナーシャは片手で顔を覆うと苦笑した。ネオナに向かって「失礼しました……」と言うと同時に体の痕が全て消える。魔女の技に彼女は息を呑んだ。


 これくらいのことなら詠唱も要らないのだ。

 強大すぎる力。

 人にして人ではない。

 闇色の瞳に、城で会ったレオノーラの緑の瞳が重なって見える。彼女たちの帯びる魅力は、紛れもなく傾国のものだ。

 ―――― 自分にはこんな力はない。あんな目はできない。

 そう思うと無性に悲しく、苦しかった。


 ネオナは独り言のように口を開く。

「あなたは何故あの方のお傍にいらっしゃるのです。サヴァス王子と同様、あの方も操るおつもりですか?」

 そう、言ってしまってから彼女は己の失言に気づいた。さっと血の気が引く。感情がぐちゃぐちゃになって、言うべきではないことを口に出してしまったのだ。


 凍りつくネオナに、しかし魔女は少しも気にしていないのか軽く笑う。

「操るなんて。私の言うことなんて聞きませんよ。むしろ私が御されているくらいです」

 ティナーシャは言いながら右手を浴槽にひたした。そのままゆっくりと持ち上げていく。細い指から零れ落ち湯船に滴るべきお湯はだが、まるで見えない手に支えられているかのように空中に留まると、小さな水の塔となった。

 しかし魔女は繊細な造形を一瞥しただけで無造作に崩してしまう。そしてそれと同じくらい軽く、彼女はネオナに尋ねた。

「貴女はあの人が欲しいんですか? ネフェリィ王女」

「……っ」


 心臓が止まるかと思った。

 聞かれた内容と、それ以上に呼ばれた名に。


 ネオナは喘ぐように聞き返す。

「ど、どうして……」

「分かりやすいじゃないですか。砂嵐を止めるのを遅らせても反対もしない。普通何が何でも先に止めて王女を探したいって言いませんか? あと、王位継承に必要な指輪を王女が持っているというのも嘘ですね。鍵となるのは貴女の体内に埋め込まれた魔法の紋様でしょう?」

 見れば分かりますよ、とティナーシャは微笑みながら言った。

 その言葉にネオナは何も返せない。全て魔女の見抜いた通りなのだ。



 ネフェリィは小さく息をつくと、姿勢を正した。魔女の眼を真っ直ぐ見返す。そこには王女としての威厳があった。

「あの方にこのことは……?」

「言ってませんけどあの人勘がいいですから。気づいてるかもしれませんね」

「そうですか……」

 湯気に溶け入る声を聞きながら、ティナーシャは手で湯をすくうと顔をぬぐった。後ろに控えるパミラに囁く。

「目が覚めてきた。どうも人に起こされると駄目なんですよね……一人で寝ればよかった」

「そうしたら私が起こしに参りましたよ」

「うう」

 ティナーシャは顔にかかる黒髪をかき上げる。横を見ると、ネフェリィが同じ様に浴槽の縁に座って自分の両手の中を見つめていた。愛らしい王女の横顔を彼女は眺める。


 魔女の干渉がなければ、あるいはネフェリィがファルサスの王妃になっていたかもしれない。

 沈黙の魔女がオスカーに呪いをかけなければ。

 ティナーシャという守護者が現れなければ。

 レオノーラがヤルダに目をつけなければ。

 ―――― 可能性を言い出したらきりがない。

 人の運命の数奇さと、魔女がそれを翻弄していることを思って、ティナーシャは目を閉じた。渦中にいながら、ただ漂うだけの自分を俯瞰する。


 まったく度し難い。

 だがもう迷いたくないと思ったのだ。

 ティナーシャは、オーレリアの強い意思の煌く目を思い出す。それは脆弱な体に精神という火を灯す人間そのものの姿だ。

 熱くなる胸を自覚して、彼女は息を深く吸う。

 もう大丈夫だ。

 ちゃんと立てる。

 向かい合うことができる。

 ティナーシャは肺の中の空気をゆっくりと吐ききった。





 何か言うべきか、そうでないのか計りかねていたネフェリィは、魔女が突然立ち上がった気配に気づき顔を上げた。柔らかな微笑を浮かべていた美しい顔が、いつの間にか冷ややかな鋭いものに変わっている。温かい室内にもかかわらず、その表情を見たネフェリィの背筋は凍った。

 パミラの手元に脱衣籠が現れる。魔女は用意された服を、濡れたままの体に羽織った。パミラがそのあちこちを縛り、留めていく。ティナーシャはどうでもいいことのように呟いた。

「一時間ぴったりか。かなり怒ってるかな」

 魔女はパミラが手を離して頷いたのを見ると、ネフェリィを振り返りにっこり笑う。

「じゃ、行って来ます」

 そう軽く手を振って、魔女は姿を消した。

 取り残された王女は、小さな疎外感と大きな不安を抱え、ただ彼女が居たはずの場所を呆然と見つめていた。




「遅い。しかも髪くらい乾かせ」

「すみません」

 回廊に立って空を眺めていたオスカーは、隣りに転移してきた魔女を見て、呆れ顔でそう言った。濡れているのは髪どころではない。漆黒の魔法着の切れ込みから見えている足にも水滴がついている。今まさに水から上がってきたような有様だ。

 ティナーシャはしかし、大して意に介した様子もなく自分の髪を軽く手で梳く。それと同時にみるみるうちに黒髪が艶を変え乾いていった。体からも同様に水気が飛んでいく。


 空では、遥か向こうで爆発が続けざまに起こっていた。よく目を凝らすと、黒い無数の点が砦に向かってきているのが見える。レオノーラの召喚した魔族を、精霊が迎え撃っているのだ。魔女は耳に手を当てると、この場に居ない精霊に指示をした。

「サイハ、ニル、イツ、東に回って助けてやれ」

 勿論返事は魔女以外には聞こえないが、彼女がその手を下ろしたことから命令が受諾されたことが他の人間にも分かる。

 オスカーは周囲に控える臣下たちを見渡した。

「基本的には昨日言った通りだ。馬鹿馬鹿しいから死ぬな。自分の命を優先しろ。―――― アルス、俺はティナーシャと行くからよろしく頼む」

「かしこまりました」


 魔女が東の空を見上げて、くっと笑った。

「来た」

 ティナーシャは右手を優美にかざす。そこに一振りの抜き身の剣が現れた。隣ではオスカーが肩の上のドラゴンの名を呼ぶ。ドラゴンは主人の声に応えて本来の大きさへと戻った。回廊のすぐ外で彼を待つナークに、オスカーは手すりを越えて飛び乗る。

 若き王は振り返ると、己の守護者に手を差し伸べた。

「ティナーシャ、この戦いに勝ったら……」

「何ですか?」

「結婚するか」

「……いいですよ。お受けしましょう」

 魔女は艶やかに笑うと男の手を取った。聞いた当の男は目を丸くしている。


 ティナーシャは、体重を持たないような身軽さで男の手を借りるとドラゴンの背に飛び移った。その頭をオスカーが軽く叩く。

「本気か?」

「勿論」

 回廊ではファルサスの面々が驚きと喜びの入り混じった顔で二人を見ている。

 オスカーは美しい恋人に微苦笑を漏らした。

「それは負けられなくなったな」

「負けるつもりがあったんですか?」

 さらりと返すティナーシャは楽しげだ。彼女は長い睫毛を伏せて目を閉じた。深く息を吸う音が聞こえる。

 そうして次にその眼が開かれた時、闇色の深淵には戦いを前にした者の、好戦的な光が輝いていた。

 長い黒髪が風になびく。魔女は嫣然と微笑んだ。

「さぁ……戦争の時間ですよ」

「行くか」

 主人の声にドラゴンが上昇する。そのままゆっくりと旋回して東に消える赤い竜の姿を、砦に残る一同は緊張を以って見送ったのだった。





 風を切って飛ぶナークは敵の気配を察知しているのだろう。東に向かって飛ぶにつれ、徐々に空を舞う魔物群の姿がはっきりと見えてきた。そしてそれを迎え撃って、精霊たちの魔法が断続的に炸裂している。ティナーシャは戦況を概観して眉を寄せた。

「数が多すぎるみたいですね。レオノーラを倒す方が早そうです」

「俺の結界消していいぞ。弾くにも力を食うだろう」

「うーん……。じゃあ、お言葉に甘えて……」

 ティナーシャは指を振って軽く血を出すと、それを男の耳の裏に塗る。

「魔法は余波がいくかもしれないので、防がせてください。危ないと思ったらすぐ拭き取ってくださいね」

「大丈夫だ」

 魔女は微笑んで頷くと、自分の剣を横にしてまっすぐ前に掲げた。刃の中程に左手を添える。彼らに気づいたらしい魔物の一団が、空中で向きを変え向かってきた。ティナーシャの澄んだ声が響く。

「定義する。我は召喚と支配を命ず。―――― 光よ、現出し我が命に従え!」

 詠唱と共に、世界を焼くほどの白光が空を走り炸裂する。光に飲まれた五十体あまりの魔物たちは一瞬で四散した。そのまま勢いを失わず空中を突き進んでいくむ光はしかし、不意に音もなくかき消える。

 光の消えた場所には二人の男女が浮いていた。


 ゆるやかな曲線を描く蜂蜜色の髪に緑の眼を持つ魔女は、妖艶な笑みを浮かべてティナーシャを見つめている。その横には浅黒い肌に赤い髪の男が剣を抜いて立っていた。

 レオノーラの潤いを帯びた声が空を通る。

「久しぶりね、小娘」

 ティナーシャは笑っただけで答えなかった。軽くドラゴンの背を蹴って空に飛び出す。そのまま右手の剣を横に薙いだ。

「この糸は肯定を待たない」

 極限まで洗練された短い詠唱。力の言葉と共に剣から数百本の赤い糸が出現し、レオノーラとウナイに向かって走る。

 レオノーラがそれらを魔法で打ち落とそうと手をかざした時、だが糸は投げかけられた蜘蛛の巣の如く広がると、彼女の視界を埋め尽くした。一本一本が針のような鋭さを持って、全方向から二人に襲い掛かる。

 レオノーラは舌打した。

「弾けろ!」

 苛烈な意志によって一面の赤い糸が消え去る。

 視界を取り戻したレオノーラはしかし、ティナーシャの姿を見失って目を見開いた。次の瞬間、隣に居たウナイに真上からの凄まじい衝撃波が直撃する。ウナイは抵抗する間もなく、高い砂飛沫を上げて遥か下方の砂漠に叩きつけられた。


「な……っ」

 慌ててレオノーラは彼の無事を確認しようとしたが、ウナイに向かい急降下していくドラゴンに視線を遮られる。彼女は邪魔なドラゴンに力を打ち出そうと手をかざし、しかし刹那の判断で五歩ほど後ろに転移した。

 同時に今までいた空間を、ティナーシャの細い剣が切り捨てる。

 空を切った剣を振ると、ティナーシャは愛想良く微笑んだ。

「ウナイのことは心配ないぞ。私の男がもてなす」

「純潔を失った精霊術士がこざかしい……」

「おかげで構成を整理したからな。実戦は有難い」

 青き月の魔女は左手をレオノーラに向かって上げると、圧縮した力を打ち出した。




 砂漠に叩きつけられたウナイは、全身のバネを使って跳ね起きた。レオノーラによって身体強化された彼は、これくらいの衝撃では傷一つつかない。全身の砂を払いかけて―――― 反射的に剣を頭上にかざす。

 そこに上からの強烈な一撃が打ち込まれた。

 常人なら手が痺れたであろう激しい一撃を耐えきると、ウナイはそのまま相手に向かい剣を押し返す。ドラゴンの背から飛び下りてきた相手は、その勢いを利用して後方に飛び退いた。

 砂をこする軽い音を立てて体勢を整えた若きアカーシアの剣士は、不敵な笑みを浮かべてウナイを見返している。上空では彼のドラゴンが旋回していた。

 ウナイはオスカーの全身を眺めると、殺意に唇を歪める。

「目障りな剣だ。使い手ごと葬ってやろう」

「それは困るな。あいつが怒り狂う」

 軽口で返しながらオスカーは足元を確かめた。砂のせいか若干滑る。

 だが気をつければ問題ない範囲だろう。彼はアカーシアを構えると、息を強く吐きながらウナイに向かって踏み込んだ。




 メレディナは東の空を仰いだ。

 先ほどから凄まじい爆音と共に、遥か遠くで赤や白の光が炸裂している。巨大な魔法のぶつかり合いに、周囲の魔法士たちも息を呑んで同じ方角を見つめていた。

 アルスがそんな幼馴染の肩を叩く。

「来たぞ」

 主戦場である東ではなく、南の方角から魔物の一群が飛んでくるのが見える。おそらく精霊の隙をついたのであろう敵の来襲に、回廊には緊張が走った。

 アルスは鞘から剣を抜く。大振りな両刃の剣は濡れた様な輝きを帯びていた。彼は軽く振ってその重さを確かめながら、東南の角へ走る。

 彼がそこに到達するのと、最初の魔物が見張りの兵士に襲い掛かるのはほぼ同時だった。

 アルスは兵士の目前に駆け込みながら斜め上に剣を切り払う。鋭い切っ先が触れるか触れないかのところで 魔物の体に真空で切ったかのような深い裂傷が走った。そのまま剣が振り切られた時、両断された魔物の体が砂漠へと落ちていく。

「いい切れ味だ。さすが」

 隣りにメレディナが走ってくる。

 アルスは彼女を確認しながら、次の魔物に向かって剣を構えた。




「火力が落ちたんじゃない? 愚かね」

 挑発するレオノーラの言葉に、ティナーシャは苦笑した。剣を媒介に無詠唱で構成を組みながら、左手には詠唱つきの構成を組む。彼女は火花を帯びた剣をレオノーラへ一閃し、そこから雷撃が解き放たれるのを追って相手の近くに転移した。レオノーラに向かい左手の構成を振りかざす。

 呼ばれぬ魔女は、片手で雷撃を吸収しながら魔力を集中させた右手を上げて、ティナーシャの第二撃を受けた。

 拮抗し、静止したように思えたのは一瞬。無二の魔力のぶつかり合いに、大爆発が起こる。

 二人の魔女はその力に乗って再び距離を取った。ティナーシャは剣を消すと両手で構成を組み始める。

「在り方を定義する。無は零なり。有は一なり。記号としての言葉は転換を命ず」

 彼女の目前、複雑に絡み合った銀の紋様が現れる。それは魔女の魔力を吸収して見る間に輝きを増した。紋様は緩やかに広がりながら球体となり、そして形を変え巨大な牙を持つ顎門となる。

「―――― 行け」

 ティナーシャが呟くと、顎門はレオノーラに向かい宙を滑った。

 レオノーラは空中を右に退きながら、焦りの窺える表情で向かってくる顎門に光球をいくつか放つ。だが顎門はそれらを食らいながらレオノーラを追尾し、美しい魔女に肉薄した。

 鋭い魔法の牙が彼女の体を捉えようとしたその時、けれどレオノーラは顎門に手を触れさせ己の魔力を叩き込む。構成内に直接魔力を注ぎ込まれた顎門は、一瞬で内部から破砕された。

 魔法の消滅を見届けて安心しかけたレオノーラはしかし、右足に走った激痛に苦痛の声を上げる。

「……ッ、この……!」

 白い脹脛にいつの間にか短剣が刺さっている。レオノーラは呪詛の言葉を吐いて剣を引き抜いた。見る間にその傷が塞がる。

 短剣を投擲したティナーシャはその様子を見て軽く眉を顰めた。

 レオノーラは治癒にかけては右に出るものがない魔女なのだ。 牽制程度の攻撃では当たっても出血を望む間もなく癒されてしまう。

 ―――― もっと致命的な一撃が必要か……。

 ティナーシャはどう動くべきか考えを巡らせながら、新しい構成を組んで宙を駆けた。




 視界の隅でアルスら武官たちと、彼らに率いられた兵士が戦い始めるのを、ドアンは緊張を持って一瞥した。

 魔法士たちはほとんどがティナーシャの組んだ構成の維持に回っている。砂漠での新規魔族の召喚を禁止する構成は、今回の戦闘における彼らの命綱だ。精霊の迎撃を抜けて到達した敵に、間近で新手を召喚されては一気に砦が落ちる可能性もある。だからこそ彼らは、慎重に一心に魔力を構成に注ぎ続けていた。

 幸い魔物たちはアルスらが足止めしており、魔法士たちのところまでは到達していない。このままなら何とか持つだろうかとドアンが思った時、けれど彼らの眼前に見知らぬ一人の男が転移してきた。

 男の長い髪は薄い紫で、瞳も同じ色である。人間ではありえないその色彩と整った容姿に、相手が上位魔族であることを悟ってドアンは愕然とした。


 ―――― ティナーシャの精霊ではない。ということはレオノーラが使役する魔族だ。

 思わぬ敵の出現に、彼は戦慄しながらも構成を維持したまま別の構成を組もうとする。

 しかしその直後、魔族の眼がドアンを捕らえた。

 とてもではないが防御も攻撃も間に合わない。彼が死を覚悟したその時、けれどゲートの隣に居たネオナが剣を抜き、魔族に切りかかった。魔族は彼女を一瞥すると向かってくる剣を素手で弾く。ネオナは押されて後ろに転倒した。

「ネフェリィ様!」

 ゲートの叫び声に驚愕しながらも、ドアンはネオナの作った時間に感謝した。出来上がった魔法を魔族に向かって放つ。同じ事をしていたらしい数人の魔法が魔族に集中した。


 宮廷魔法士たちによる高圧力の攻撃。人間なら塵も残さず消し飛んだであろう魔法を―――― しかし魔族は指一本動かさず防ぎきる。ドアンは己の魔法が掻き消える様を、呆然と見やった。

「まじか……」

 絶望の吐息が魔法士たちから洩れる。魔族は周囲の人間たちを見回すと、残忍な笑みを浮かべた。

「誰でもいいから一人、生かしたまま連れて来いと命じられている」

 全員が息を呑む。彼らはすぐにその目的を理解した。オスカーか、ティナーシャに対しての人質を調達しようというのだ。

 魔族は近くに居たパミラに向かって手を伸ばす。彼女の顔が緊張と固い意志で歪んだ。

 その表情を見てドアンは叫ぶ。

「死ぬな!」

 パミラはびくっと体を震わせるとドアンを見た。

 彼女は今まさに、仕える魔女の為に舌を噛もうとしていたのだ。ドアンは鋭い視線でそれを留める。

 ―――― 彼の主人は「馬鹿馬鹿しいから死ぬな」と言った。その命を破るわけにはいかない。

 だがそれでも、今この状況に何の打開策も見出せなかった。


 面白そうに彼らを見ていた魔族が、再びパミラに手を伸ばす。

 その手が彼女に触れようとした時、少女の軽い声が響いた。

「何つまんないことやってるの? 馬鹿?」

 魔族の背後、空中から女の手が現れる。

 白くしなやかな手。だがそれが、唯一普通のものと違っているは、五本の爪が鉤のように湾曲して長く鋭く光っていたことだった。

 首を刈り取ろうと振り下ろされた爪を、魔族はかろうじて避ける。彼が振り返ると同時に、爪の主が全身を現出させた。妖しい笑いを浮かべた赤い髪の少女がそこに立っている。

 紫の髪の魔族は、驚いたように眼を瞠った。

「ミラ・フィエルアか。千年ぶりか?」

「お前のことなど知らないわ。雑魚が」

 魔女の精霊は歌うように傲然と言い放つと、獲物を切り裂く為の鉤爪を軽く鳴らした。

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