第39話 砂のお城 02
ティナーシャは夜中までかかって構成を途中まで張ると、ひとまず作業を中断してその日は砦に泊まった。いくら最強の魔女と呼ばれているとは言え、自分の力を過信する気はない。下準備は入念にしておくつもりだ。相手が同じ魔女であるなら、それでも足りないくらいだろう。
翌日も朝から構成の残りを張っていたティナーシャは、午後には作業を終えると砦に来ていたアルスとメレディナを呼んだ。既に砦とファルサス城を繋ぐ転移陣は、昨晩のうちに用意済みである。ただそれを使える者は安全上ファルサスの人間に限定されていた。
「好きな剣を持っていってください。アカーシアほどではないですが、どれも名剣です」
ティナーシャは砦の会議室に、塔から持ち込んだ魔法の剣を二十振りほど並べると二人に示した。メレディナは口をぽかんと開けてそれらを見下ろす。
「え、貰っていいんですか?」
「勿論」
「魔法の剣……ですよね」
「おそらく魔族が相手になりますから。魔物殺しに優れたものを選んできました」
アルスが恐る恐る一番上にあった一振りを手に取る。柄に竜の装飾がほどこされているその剣は、僅かに抜いてみると刃が青い。
「凄い」
彼は目を輝かせながら何本かを順に手に取ると、自分とメレディナに丁度いい剣を選んだ。渡された剣を抱え込んだ二人は、感動を隠しきれない目を魔女に向ける。
「ありがとうございます!」
「こんな戦いに巻き込んだのは私にも原因がありますから……お礼は言わないでください」
ティナーシャは自嘲気味に笑いながら、残りの剣を消した。纏め上げていた黒髪をほどき。、時間を確認する。
「じゃ、ちょっと私は城に戻りますね」
「もう陛下を呼びに行かれるのですか?」
「いえ、まずは先手の許可を取りに……」
ティナーシャは悪戯っぽく笑うと、その場から転移した。
魔女はまず執務室に転移したが、そこには誰もいなかった。彼女は首を傾げながら廊下に出る。右を見ると丁度ラザルがやってくるところであった。ティナーシャは軽く手を上げる。
「あの、オスカー知りませんか?」
「第三講義室にいらっしゃいます。昨晩敵の魔法士を捕まえまして」
「うわぁ、何だそれ」
魔女は予想外の展開に唖然としたが、お礼を言って講義室に転移した。
普段魔法士たちが講義を受けているその部屋に居たのは、オスカーの他に、カーヴとレナートである。そして彼らの視線の先には緑色の髪をした女が椅子に拘束されていた。
見覚えのある顔にティナーシャが目を丸くしていると、オスカーが魔女を振り返る。
「お、ちょうどいいところに来たな」
「どうしたんですか一体」
「のこのこ来たから捕まえた」
見ると女の手首には封飾セクタが嵌められている。ティナーシャは嫌な思い出が蘇り、少しだけ女に同情した。
「ちょうどいいのはこちらもです。ついてますね。捕まえに行く手間が省けました」
「そうか? 扱いに困ってたんだが。何も話さないし井戸にでも放り込もうかと」
「井戸が以後使えなくなるじゃないですか」
嫌な顔で返しながらティナーシャは女の前に立った。身をかがめてその顔を覗き込む。女は魔女を見て不敵な笑みを浮かべた。虚勢なのだろうが、その度胸にティナーシャは感心する。
「名前は?」
「アデライーヤというそうだ」
「いい名前ですね。―――― ではアデライーヤ、ヤルダ城内の構造と今の状況を詳しく教えてもらおう」
「何も話さないと、今お聞きになったのでは?」
「話してもらう」
ティナーシャは右手の平を上にかざした。そこに透明な液体を湛えた小瓶が現れる。魔女はその小瓶を手に取ると、軽く振って中身を確認した。
「よし」
魔女がアデライーヤを一瞥すると、その白い腕に裂傷が走った。みるみるうちに赤い血が滲み始める。ティナーシャは小瓶を開けると、その雫をアデライーヤの傷の上に垂らしながら小さく詠唱した。雫は傷口から体内へと急速に沁みこんで行く。それを確認するとティナーシャは傷を閉じた。
アデライーヤは緊張に表情を引きつらせながらも、傲然と顔をあげる。
「私に魔法薬は効きません」
「私もそうだがな、例外がある。閉ざされた森の魔女、ルクレツィアが作った自白剤だ」
その言葉にアデライーヤは蒼白になった。魔法薬において右に出るものが居ない魔女の名前を、彼女もまた知っているのだ。
オスカーがまだ半分以上中身が残っている小瓶を見る。
「何でそんなもの持ってるんだ」
「浮気されたら使いなさいって貰ったんですよ」
「…………」
苦い顔で黙り込んだ王の後ろで、レナートが笑いを堪えている。
カーヴはルクレツィアお手製の魔法薬に興味があるらしく「いいなぁ」と呟いた。
ティナーシャはそれから三十分ほどかけて、アデライーヤから一通りヤルダについての情報を引き出した。腕組みをしながら心中で軽く方針を決めると、オスカーを見上げる。
「今からちょっとヤルダに行ってきます」
「空耳か?」
「痛い痛い!」
こめかみを締め上げられて魔女は暴れた。
オスカーは手を離すと、冷たい目で彼女を見やる。
「俺の言ったことが分かっていないのか?」
「分かってます。でもヤルダは内戦直前なんです。レオノーラを殺してもすぐに止まるとは限りません。いえ……もしかしたらその前に始まってしまうかもしれない。それを僅かですが、遅らせてきます」
「そこまでお前がやる必要はない。余計な手出しだ」
「やらせてください。大丈夫です。向こうでレオノーラには会わない。すこしかき回してくるだけです」
軽い沈黙が立ち込める。
オスカーは不思議な既視感を感じて、それが魔獣討伐の時のことであると思い出した。あの時も不安に思いながら、結局彼女を送り出したのだ。
今は王となった男は、内心の嘆息を飲み込む。
「……すぐ戻ってくるんだろうな」
「二時間ほどで戻りますし、そうしたら貴方を迎えに来ます。駄目ですか?」
闇色の瞳が彼を見上げる。オスカーはしばらくその双眸を見つめていたが、溜息をつくと彼女の頭を撫でた。
「行って来い」
魔女はそれを聞いて柔らかく微笑んだ。男への信頼を漂わせるその表情は、彼が彼女を信頼していることと表裏であるのだろう。
ティナーシャは長距離転移の為の構成を組みながら、オスカーの後ろに視線を送った。
「レナートも来てください。やることが多いんで」
「かしこまりました」
構成の現出と共に二人の魔法士が姿を消すと、王はアデライーヤを振り返る。
薬を盛られたままの彼女は、濁った緑の目を床に向けて動かない。彼は少し首を捻ったが、女に向かって問いかけた。
「レオノーラは何故ティナーシャを嫌っている?」
それを聞いたのは単なる好奇心だ。
アデライーヤは一瞬の沈黙の後、力なく呟く。
「グウィードの裏切りの為」
その言葉を、オスカーは口の中で反芻した。
※ ※ ※ ※
「今晩にでも王の身柄を確保する」
ジシスの言葉に、彼の陣営についている三人の将軍は頷いた。
内戦は続けば続くほど国が疲弊する。決着は一日も早くつけねばならないのだ。王の権威は権威として尊重するが、それは象徴としてあればいい―――― ジシスはそう思っていた。
幸か不幸か、サヴァスには国を動かすだけの能力がない。加えてレオノーラのような怪しい女にたぶらかされているようでは先も見える。今の彼が王位を継ぐことは、何としても避けねばならなかった。
ちょうどいいことに、王位継承に必要なネフェリィは行方不明である。ジシスはまず王を確保し、サヴァスを無力化してから彼女をゆっくり探そうと考えていた。実権を握れるのなら、象徴としての王位などネフェリィに渡しても構わないのだ。
ジシスは将軍たちを見回す。
「サヴァス殿下の私兵が動くかもしれないが、それは処理しろ」
「かしこまりました」
「―――― いや、ちょっと待って欲しいな」
突然掛けられた男の声は、その場の誰のものでもなかった。全員が騒然と立ち上がる。
見るといつのまにか部屋の入り口に、一人の男が立っていた。格好からして魔法士であるらしい男は、怯むことなくその場に佇んでいる。
国を覆す為の極秘の集まりに、知らない男が侵入するなどあってはならないことだ。三人の将軍たちは顔を見合わせ―――― 直後、剣を抜くと男に向かって駆け出した。男は軽く詠唱しながら構成を組み立てる。
振りかざされた剣が、男を切り捨てようとしたまさにその時、彼らの眼前には転移門が開いた。それは大きくゆらぐと、三人の将軍を飲み込んで転移させる。
ジシスは味方が突然消失したことに動転の声を上げた。
「な、なんだお前! 何をした!」
「適当に遠くに放り出しただけだ。俺の女王がそれをお望みでね」
レナートは手を前にかざす。そしてそれに応じて転移門は形を変えると、ゆらりと先端を伸ばし、逃げようとするジシスを飲み込んだ。
サヴァスは苛立ちを抑えながら廊下を歩いていた。
先ほどからジシスに対抗する為の指示を出そうと、彼側についてくれている将軍や魔法士を呼び出そうとしているのに、誰一人一向に来ない。諦めて自分から出向いてみればどの人間も見当たらないのだ。
―――― まったくこの微妙な時期に何処に行っているというのか。結局レオノーラ以外は誰も信用できないし、役に立たないのだ。
サヴァスは味方である魔法士の研究室に辿りつくと、乱暴にその扉を開いた。
中にいた人間が振り返る。
「どうぞ」
サヴァスはその人物を見て唖然とした。
部屋の主ではない。長い黒髪に闇色の瞳の、恐ろしいほど美しい女がそこには立っている。
彼女は微笑むと、「扉を閉めてください」と言った。サヴァスは慌ててそれに従う。
気圧されて唾を飲みながら、彼は女に向き直った。
「お前は誰だ」
「妹姫に頼まれて来ました」
「っ、ネフェリィが何処に居るのか知っているのか!?」
「存じておりますよ。でも殿下には申し上げられません」
「僕はあいつの兄だ!」
「少し前まではそうだったのでしょうね」
辛辣な言葉に、サヴァスは顔を赤くした。言い訳を口にしようとして、だが矜持からそれを飲み込む。
女は机に腰掛けると足を組んだ。服の裾から見える白い足が、怖いくらい清冽である。闇色の瞳が斜めに彼を見上げた。
「貴方が欲しいものは王位ですか? それとももっと大きな権威?」
「王位だ! 当然の権利だ! ジシスさえ余計なことをしなければ……」
「貴方の方がよりよい国を作れたと?」
「決まっている! 僕は王族だぞ」
「その為の努力は為されましたか?」
彼女は冷ややかな目でサヴァスを見つめた。何も知らない女の言葉に、彼の顔は怒りに歪む。しかしサヴァスが何かを言うより先に、女の鋭い声が続いた。
「国は王の権威を示す為の道具じゃありませんよ? 王も国も、人を守る為の、人が作った機関です。そのことを理解していない人間に国を動かす資格はありません」
「分かっている!」
「それならばいいんですが」
漆黒の眼が心中を見透かすかのように彼を注視した。居心地の悪さにサヴァスは身をよじりたくなる。
―――― 不思議な力のある目だ。怖い女だ。
サヴァスは彼女を見たくなかった。見れば何かが変わってしまう気がするのだ。
だが女はそれを許さない。胸を張って自分の方を見ろと圧力をかけてくる。
「もう少し周りをよくご覧になったらどうです? 貴方が殺そうとしているのも、殺させようとしているのも貴方の民です。貴方が彼らを守らなくて誰が守るのです。貴方の女は彼らを駒としてしか見ていませんよ」
「レオノーラは悪くない!」
「悪いとは言っていません。ただ貴方とは立場が違うと言っているのです。彼女は手段を選びませんよ? 自分の決めるべきこと、為すべきことを人に委ねて誰を殺すおつもりですか?」
皮肉と言うには直線的な問いに、サヴァスは何も言い返せなかった。自分で何も決めてこなかったことも、王位を巡る戦いが始まろうとしていることも事実なのだ。そしてそこから始まる悲劇が、自分の弱さに起因しているということも。
彼は口惜しさに拳を握り締めた。女の、感情が読めない目を見つめる。見入ればその深淵に呑まれ、気が遠くなっていく気がした。
自分を偽れない。虚勢が剥がれ落ちていく。一度は切り捨てたはずのものたちが、後悔を伴って彼を苛んだ。女の眼をじっと見ていたサヴァスは、やがて肩を落とすと力なく呟く。
「―――― だがもう止まれない」
ジシスとの決裂は決定的で、しかも軍が動こうとしている。たとえサヴァスがその手を上げなくても向こうは攻撃を仕掛けてくるだろう。
しかし女はそれを聞いて苦笑した。
「何も起こっていないのに、引き返せないことなんてありませんよ。必要なのは少し誇りを折る事です。貴方にそれが出来ますか?」
女は机を下りると、サヴァスのすぐ前まで歩いてきた。 白い手を伸ばして彼の頬に触れる。
温かい、柔らかい手だ。
その温度がしみこんで彼は泣きたくなってしまう。今は亡き母の面影が甦った。
「……間に合うのか?」
「貴方がそれをお望みなら。時間をさしあげましょう」
女は微笑む。それは優しい声だった。
※ ※ ※ ※
落ちかけた日が砂嵐を煌かせている。
ティナーシャは精霊を伴って構成の最終確認をすると、全体に迷彩をかけて感知できないよう覆い隠してしまった。普通の魔法士ならまず構成も見えないが、相手が魔女なら微妙なところである。
それでもやらないよりは大分ましだろう。ティナーシャは術の出来に肩をすくめた。ゆっくりと空を飛んで回廊に降りる。
そこには彼女の契約者が待っていた。隣りにはゲートとネオナも立っている。オスカーは魔女の頭に手を置いて問うた。
「どうだ?」
「まずまずです。あんまり強い構成を張りすぎるとここを避けられてしまうかもしれませんから。この辺りが妥協点ですね」
「そうか」
魔女は小さく欠伸をした。気を張っている時は眠気が来ないが、ふとした瞬間途轍もなく眠くなる。華奢な体で強大な力を揮っていることの反動なのかもしれない。
オスカーは彼女の頭をぐりぐりと撫でた。
「ヤルダはどうした?」
「内紛の主要人物をほとんど国境近くのあちこちに飛ばしてきました。魔法士は魔力を封じてありますしすぐには戻って来れません。軍も動けないように、宿舎の井戸に下剤を盛ってきました」
「お前も手段を選ばないな……」
なかなかえげつないことをする。しかし魔女はしらっとそれを受け流した。
「王子には説教してきました。少しは効いたみたいなので時間は稼げそうです。あと王には魔法薬が盛られ続けていたようなので、治療してきました。完治にはまだかかりますが、起き上がれるようにはなりましたよ」
「陛下が!?」
隣で聞いていたゲートが驚きの声をあげた。ネオナが青い顔をして口を押さえている。
「薬が盛られていたのか……? 気づかなかった」
「最初に盛ったのは時期的にジシスかもしれませんが、今はレオノーラの配下がやってるんじゃないでしょうか。気づかれないようにかなり微弱なものを使ってますが、徐々に体力を奪い取ります」
魔女の冷静な説明を聞いて、ネオナが声を荒げた。
「そうと分かったなら何故陛下を連れ出してくれなかったのです! 治療がほどこされたと魔女に知られたら危険なのではないですか!?」
掴みかかろうとしかねないネオナの勢いに、しかしティナーシャは眉一つ動かさない。
「サヴァスに自分で面倒を見るように言ってきましたよ。そもそもこの非常時に、王が城を逃げ出したなんて分かったら、後に響きます。王自身もそのことはよくわきまえていらっしゃいましたよ。一日くらいは耐えられるでしょう」
厳しいティナーシャに、ネオナは言葉を詰まらせた。
―――― 彼女の言うことは正しい。魔女に踏み込まれ、王だけが城を逃げ出したとなれば、城を明け渡したも同然だろう。
オスカーはネオナを見下ろすと、冷たくも聞こえる声で言った。
「ヤルダの内紛を遅らせてきたのはこいつのお節介だ。そこまで面倒を見る気は無いと最初に釘を刺したはずだが」
「……申し訳ありません」
ネオナは赤面して頭を下げると逃げるように立ち去った。ゲートがその後を追う。回廊に二人きりになると、オスカーは小さく溜息をついた。
「やれやれ。だから余計なことはするなと言ったんだ」
「これくらいは魔女の後始末の内です」
ティナーシャは宙に浮かび上がると、男の首に両腕を回して懐く。オスカーは猫のように甘えてくる魔女に相好を崩した。
こうしているとただの無邪気な女に見えるが、決して誰にでも無条件に優しい人間ではない。むしろ王族などには厳しいくらいだ。それはおそらく彼女の出自の為であろう。
オスカーはその時ふと、アデライーヤから聞いた情報を思い出した。
「グウィードって人名か地名か?」
「うわ、懐かしい。どうしたんですか?」
目を丸くしたティナーシャに、オスカーは簡単に聞いたことを説明してやった。
ティナーシャはそれを聞くと石畳に下りる。表情を消し、透き通った光を湛えた目を伏せた。
「レオノーラが気にしていたとは思いませんでした」
「一度戦ったっていう時のことか?」
「いえ、それはもっと後です。……グウィードっていうのはタァイーリの王だった人なんですよ」
オスカーは驚きに眉をあげた。
タァイーリは魔法士を嫌う国家で有名である。その王であった人間が、魔女といったいどういう関係だったのだろう。
興味が湧いたが、聞いていい事なのか分からず沈黙したオスカーに、ティナーシャは微苦笑して首を横に振った。
「大した話じゃないです。少なくとも私にとってはですが」
二人は中に向かい並んで歩き出す。すれ違うヤルダの兵士たちが彼らを振り返る中、ティナーシャはぽつぽつと話し始めた。
「私が魔女に成ったばかりの頃の話です。―――― 当時グウィードとレオノーラは恋人関係にあったみたいです。といっても甘い関係じゃなくて、お互いがお互いを操ろう利用しようとしていたように見えました。レオノーラは魔法を嫌うタァイーリを弄りたがってましたし、グウィードはグウィードで魔女を支配することで魔法士を屈服させたという実感が欲しかったみたいです」
「阿呆だな」
オスカーの率直な感想に、魔女は困ったような笑顔を向けた。
「で、そこに私が現れて……タァイーリで歌い手をしていたんですが、レオノーラがそれに気づいて、グウィードに私のことを教えたらしいんですよ」
「それでお前に乗り換えたとかか」
「うー。そう言っちゃうと身も蓋もないんですが、事実としてはそうですね。グウィードは、私がトゥルダールの女王候補だったと聞いて、私を側室にしようとしたんです。当時トゥルダールは滅びたばかりで、その原因が諸国で取り沙汰されていまして。それを私を側室にいれることで、タァイーリがトゥルダールを滅ぼしたという誤解を諸国に与えようとしたんですよ」
「何だそれは」
ふざけてるにも程がある話だ。オスカーの声に苛立ちがこもる。
くだらない小細工をして国の威信を上げたとしても、それは所詮張りぼてで何の意味もない。偽りで固めた誇りで何をしたいのか、彼にはまったく理解出来なかった。
魔女は美しい顔に皮肉げな笑みを浮かべる。
「当時私の外見って十三歳だったんですけどね。迷惑な話です。勿論私はそのままタァイーリを出ました。グウィードは……後に不審な死をとげたそうです」
「それが原因でお前を恨んでるのか。八つ当たりだな」
「それだけじゃないんでしょうけどね……基本的に合わないんですよ。きっと私が気に入らないんじゃないですか」
「気に入らないだけで魔物を向かわせるのか?」
「それが魔女ですよ」
忘れたんですか? とでも言いたげな、自嘲的な声音でティナーシャは結んだ。
※ ※ ※ ※
レオノーラは暗い部屋の中、目を覚ました。
ここ数年、眠っている時間が長くなってきている。―――― 遊んでいても面白いと思えることが少なくなってきたのだ。つまらないことをするくらいなら、夢の中にいたほうが余程ましだ。
もっとも、些事に拘泥しているというわけではない。時間はいくらでもある。それくらいの精神的余裕は持っている。
ただ、そろそろ世界に飽いたのかもしれない。いつまでも代わり映えのしないこの世界に。
だがそれでも、長く生き過ぎたなどとは思いたくなかった。生きたいから生きてきたのだ。そこに後悔はない。―――― そして戻りたいとも思わない。
レオノーラは肺の中の息を吐ききると、嘲りを以ってもう一人の魔女を思い浮かべた。魔女の中でも一番若く、一番気に入らない女だ。
初めて見た時は単なる子供だった。滅びし魔法大国の最後の女王だという彼女は、闇色の両眼に人への憎悪を煌かせながら人の中に佇んでいた。その姿を見て、まるで愚かだと思ったのだ。
―――― 魔女がそんな目をするものではない。
折角魔女に成ったのだ。人への憎しみなど忘れ、楽しめばいい。憎しみに支配されても何もいいことなどない。レオノーラはそう、身をもって知っていた。
グウィードに彼女を見せたのも、ほんの気紛れだ。そして彼が自分を捨てたのも、腹は立ったがそれだけだった。
それでもレオノーラの中で何かが息づいた時をあえて選ぶとするなら、それはグウィードが彼女を見て、「あの眼が気に入った」と言った時かもしれない。
その言葉は、後からじんわりと効いてきた。
あの眼。
憎悪と復讐に満ちた深淵。
レオノーラが身悶えしながらようやく捨て去った感情と同じもの。
まだ幼い魔女はそれを持ち、しかしレオノーラと違ったのは、その中にありながらも清冽だった。
―――― 彼女はその存在で人を惹く。
自分とは違う。どす黒い感情に捕らわれて醜く歪んでいた自分とは。
人を魅了するために憎しみを捨て笑顔を纏う自分とは違い、彼女はむしろ憎悪の輝きによって人を虜にするのだ。
気に入らない女だ。
それは彼女が憎しみを眼から消した今でも変わらない。
レオノーラはかつての少女を鼻で笑う。
魔女に強い感情などいらない。楽しみだけあればいい。
だからレオノーラは、楽しみを以って彼女を殺すのだ。
「サヴァス?」
レオノーラは薄緑色の長衣を引き摺りながら廊下に出た。
軍の用意はどうなったのか。彼が自分に何も言いに来ないとは珍しい。状況はどうなっているのか、誰からでもよいから知りたかった。彼女は配下の一人の名前を呼ぶ。
「マリア? いないのか?」
いつもならすぐに現れるはずの配下はしかし、今日はその姿を見せなかった。レオノーラは怪訝に思って、鈍る頭を振る。
どうも寝てばかりいるせいかすっきりしない。記憶も曖昧に前後しており、最後に配下の女を見たのがいつなのか分からなかった。
「ラケス? ミズハ? アデライーヤ? どうしたんだ一体」
彼女は溜息をついた。諦めて部屋に戻る。寝台に腰掛けると「ウナイ」と男の名を呼んだ。その名はもっとも古くから彼女に仕える、もっとも信用できる片腕と言っていい男のものだ。
呼び声に応えて、男の姿が彼女の前に現れる。彼は浅黒い肌を持つ長身の男で、僅かに反り返った長剣を佩いていた。
元は茶色であった髪と瞳は、彼女がかつて力を与えた際に深い赤に変わった。レオノーラはウナイが現れたことにほっとして微笑する。
「お呼びでしょうか、レオノーラ様」
「変わりはない?」
「私はご命令によりガンドナにおりますれば。変わりはございません」
「ああ、そうね……」
彼女は苦笑した。そんなことまですっかり忘れていたのだ。何だか心がもやもやする。形をとらない不安が沈殿している気がした。
ウナイは部屋の水差しから水を汲んで、顔色のよくない主人に差し出す。
「お疲れなのですか? 少し横になられるとよろしいですよ」
「起きたばかりなのだけど……」
レオノーラは困ったように微笑んだ。それでもウナイの言葉に甘えて水を飲むと横になる。体が妙に重く、寝台に沈みこんでいくようだ。
「ウナイ、眠るまで傍にいて頂戴」
「かしこまりました」
レオノーラはその答に安堵して眼を閉じる。
―――― この夜だけはもう少し眠ろう。そうして目が覚めたなら、もっと楽しいことをするのだ。
魔女は優美な唇に微笑みを湛えたまま、眠りの中に落ちていった。
※ ※ ※ ※
レオノーラが眠りに着いた頃、カドス砦もまた夜の帳の中にあった。
会議室ではファルサス国王とその側近たち、ヤルダの将軍と魔法士たちが最後の確認をしている。場を取り仕切る王が、傍らの恋人を振り返った。
「ティナーシャ、相手はどれくらいと見積もる?」
「大したことないと思います。今日ヤルダにいた配下は全員片しちゃいましたから。片腕のウナイも本当は何とかしときたかったんですけどね」
魔女はお茶を一口含んだ。窓の外の砂嵐を視界に入れる。
「魔法士にはここ一帯の構成の維持をお願いしたいです。レオノーラの相手をしているとその余裕がありませんから。紋様を使って書くと今から向こうにばれちゃいますからね……手落ちですみません」
彼女の言葉に、部屋の魔法士全員が頭を下げて了承の意を示す。
オスカーが砦の見取り図を手に取った。
「武官と兵士は砦の防御だな。ティナーシャ、向こうの魔族は精霊で何とかできるのか?」
「するって言ってるんで任せますよ」
「レオノーラは召喚の腕に特化してるんだろう?」
「してますけど、砦周辺には妨害構成をおきますし……それに今回はちょっと協力者がいますからね。上位魔族で彼女の召喚に応じる者は、既に契約を結んでいる者以外いないはずです。圧力かかってます」
若干歯切れの悪い、けれど悪戯っぽい魔女の言葉を聞いて、オスカーはその理由に思い当たった。
おそらくトラヴィスが噛んでいるのだ。彼が魔族に圧力をかけているのだろう。レオノーラは戦いの前から、余計な存在まで敵に回してしまっているらしい。
「それでも全部殺せるかと言ったら、蓋を開けてみないと分かりませんから。将軍たちにはお手数かけます」
「全力を尽くします」
「明日の朝には砂嵐を消します。向こうが気づいて準備に時間がかかったとしても……おそらく明日中には来るんじゃないでしょうか。来なかった場合は、私が動きます」
「来ることを祈る」
オスカーが平然と締めくくる。
歴史上でもほとんど記録がない魔女との戦いを前に、それぞれの表情に緊張が滲んだ。
だがファルサスの面々がそれでも何とかなると思っているのは、彼らの王と、その寵姫の魔女がついているからだ。彼らは二人の力の程をよく知っている。そこには確かな信頼があった。
そうして彼らは、明日の夜には全て終わっていることを信じて、各々の部屋に戻ったのである。
ティナーシャは部屋に戻ると、その場から砦周辺に待機する精霊全てに確認をとった。彼女がヤルダ城に侵入したことがばれてレオノーラが予定より早く来た時の為、見張りと迎撃を兼ねて精霊たちが構えているのだ。
全員から問題ない旨を聞くと、ティナーシャは窓辺を離れる。寝台ではオスカーがアカーシアを布で磨いていた。彼女はその横に座る。
オスカーはアカーシアに視線を落としたまま隣の女に聞いた。
「一度戦った時はどうだったんだ?」
「勝ちましたよ。勝ちましたけど……痛み分けと言ってもいいかもしれませんね。私の相方が重傷を負いましたから」
「何だ相方って」
「その時は二対二で戦ったんですよ。向こうはウナイがいて……私には、私に剣を教えた男がついたんです。二人は剣の腕はほぼ互角だったんですが、ウナイは人外でしたから」
「人外?」
「レオノーラが魔族を吸収させたみたいなんですよ。だから身体能力がちょっとおかしいですね」
オスカーはアカーシアを燭台の炎にかざした。刃の輝きを確認すると鞘に収める。
「俺はそいつの相手をすればいいのか?」
「そうなりますね」
今回の仕切りはティナーシャである。オスカーは軽く頷いた。
「安心しろ。余裕で勝ってやる」
「よろしくお願いします」
魔女は声をあげて笑った。
―――― 彼を信じている。そして彼女は自分にも自信があった。
最強と呼ばれる自分こそが、もっとも戦いに特化した魔女である。たとえ精霊魔法が使いにくくなった今でも負ける気などなかった。
オスカーは鞘に戻したアカーシアを寝台の下に置くと、魔女を腕の中に抱き取った。繊細な顎を捕らえると、彼女の唇と首筋に口付ける。
ティナーシャは目を閉じてそれを受けていたが、口付けが徐々に下に下りて行くのに気づいて、赤面しながら男の体を押しのけた。
「駄目です」
「何で」
「時と場合をわきまえてください」
「分かった」
男の返事にティナーシャはほっとしたが、次の瞬間寝台に押し倒されて目を丸くした。
「分かってないよ!」
「お前のそれを聞くのも久しぶりな気がする」
「人の話を聞けよ!」
首から胸元にかけて唇がゆっくりと触れていく。白い足を男の大きな手が優しく撫で上げた。背筋が熱く震える感覚を堪えながらティナーシャは手を伸ばして彼の耳を摘む。
「今来たらどうするんですか」
「そうしたらやめる。けど今やめて明日死んだら心残りだな」
「え、縁起でもないことを……」
まったくこの男は、負けるなどと思ってもいないくせに人が悪い冗談を言うのだ。
オスカーは顔をあげて微笑すると、魔女の耳に囁いた。
「分かったら夜伽しろ」
「……明日どさくさで貴方を吹っ飛ばしたくなってきましたよ……」
まったく緊張感がない。
抵抗するのも馬鹿馬鹿しくなってくる。
ティナーシャは脱力しながら、けれど何故か笑い出したい衝動に駆られて、男の首に白い両腕を回すと、その体を確かめるように抱きしめた。
翌朝オスカーに起こされたティナーシャは、寝ぼけ眼のまま回廊に立った。
不安そうなヤルダ陣と、最近ようやく彼女の寝起きが悪いことを知って苦笑しているファルサスの人間の前で、魔女は軽く手を砂嵐に向かって差し伸べる。
「定義の変質を命ず。意味の消失を命ず。檻はその内も世界なれば境界は逆転する―――― 我が命が全てと受け入れろ」
魔女の手から、魔力を帯びた構成が蜘蛛の巣の様に一帯に広がる。
みるみるうちに伸びていくその構成が彼女の手を離れ砂嵐に吸い込まれ、そして消え去ると同時に砂嵐もまたふっと勢いを止めた。
少しずつ視界が晴れていく。白い砂漠が日の光を反射して輝いた。イオセフとネオナが息を呑んで広がった景色を見つめる。
ティナーシャは両手で口を覆うと欠伸をした。
「これでよし……と。レオノーラが来るまで早くて一時間ですかね。もう起きてれば、の話ですが」
「寝てると気づかないのか?」
「さぁ……」
眠気溢れるいい加減な返事に、オスカーは彼女のこめかみを締め上げた。魔女の目に涙が滲む。
「い、痛い……目が覚める……」
「先にしっかり覚醒してこい。パミラ、頼む」
「かしこまりました」
パミラは、目をこすっている主人を引き摺るようにして砦の中に戻っていった。それを不安げな目で見送ったヤルダ陣に、オスカーは軽く手を振る。
「あれは大丈夫だ。一時間とは限らんから全員が真面目にここで待っていることもあるまい。適当に交代してくれ」
オスカーはそう言うと自分も砦の中に戻る。クムとアルスが、残った人員に簡単な振り分けを始めた。
ネオナは砦の中に消えるファルサス国王の背中を見送って、自分がその姿を追いたがっていることに気づく。だがすぐに、かぶりを振って己の感情を打ち消した。
そんな場合ではないのだ。国の存亡がこの戦いにかかっているといってもいい。彼女は気を引き締めると、改めて覚悟を決める。
そうしてネオナは拳を軽く握ると、あと一時間を過ごす為に砦の中に戻っていった。
頭の中に何かが割れる音が響いた。レオノーラは、ハッと顔をあげる。
今まで眠っていたにもかかわらず、眠気など微塵も残っていなかった。鋭い声で配下の名を呼ぶ。
「マリア! アデライーヤ! シンク!」
誰も現れない。
彼女は記憶を手繰り寄せる。
確かアデライーヤには、ファルサスへ向かうように命じたのではなかったか……。
「まさか……」
配下の者たちの気配が感じ取れない。サヴァスも来ない。
そうして、王女を閉じ込めていた砂嵐が解かれた。
誰が何をしているのかなど、考えるまでもない。そんなことを出来る人間、魔女に歯向かって来る人間など他に居ない。
―――― あの女が動いていたのだ。
怒りが世界を染め上げる。澄んだ音がして部屋の窓硝子全てが砕け散った。透明な飛沫を魔女の声が打ち砕く。
「ウナイ!」
「ここに……」
男が現れ彼女の前に跪く。レオノーラはそれを傲然と見下ろして命じた。
「あの女を殺しに行く。準備をするわ。手伝いなさい」
「かしこまりました」
レオノーラは目を細めると、血のような赤い唇に笑みを浮かべた。
今度は先手を取られたかもしれない。でもこれは予定通りだ。
起きたなら楽しいことをすると、最初から決めていたのだから。
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