第37話 爪を切る夜 02
「疲れた……」
「お疲れ様です」
魔女は、寝台に腰掛けたオスカーの背後に座って髪を乾かしながら、申し訳なさそうに返してきた。部屋に戻った彼は何種類も香水の移り香が混ざっていることに吐き気を堪えながらまず風呂に入ったのである。どうにも執務室で仕事をしている時の何十倍も疲れるのだが、これも義務の一環である以上、堪えてしかるべきことだろう。
ティナーシャの白い指が髪をゆっくりと梳きながら乾かしていくのを心地よく思いながら、オスカーは目を閉じた。
「ヤルダの王女だがな、来てなかった」
「欠席ですか?」
「それが、ガンドナが問い合わせたところ確かに出立はしたらしいんだ。でも着いていない」
「大問題じゃないですか……」
「ガンドナは国境に着く前に行方が途絶えたようだと言ってるが、何があったのやら」
「王族ってその方だけなんですか?」
「いや、兄がいたはずだ。父王はもうかなりの年だった気がする」
ヤルダは今国内が荒れている。
ファルサスが密かに調査をしたところ、内部で分裂が起こり、そのうちの一部は戦争の準備をしているのではという話もあるくらいだ。同様の調査はヤルダに国境を接している他の国々もしていたのだろう。彼らは揃って今回の王女の出席を重要視していた。
―――― だが彼女は来なかった。或いは来れなかったのか。
このことが何を意味しているのか。どうせ揉めるなら国内のみで揉めて欲しいものだ、とオスカーは心中で呟いた。
ティナーシャが風呂に入って戻ってくると、オスカーは寝台でうつ伏せになって寝ていた。
珍しいこともあるものだ。余程疲れたのだろう。彼女は苦笑しながら寝台の横に立つと、彼の体に掛布を掛けようとした。
その手を寝ていたはずの男に掴まれて飛び上がりそうになる。
「起きてたんですか」
「いや、少し寝てた」
オスカーは仰向けになりながら、ティナーシャの手を引いた。彼女は寝台に上ると足を伸ばして男の隣りに座る。まだ僅かに湿り気が残っている黒髪を指に絡めながらオスカーは女の横顔を見上げた。
「お前が話していた男、あれ人間か?」
「うわ! 吃驚! 見てたんですか?」
「見てた。ここの公爵らしいけど気配がおかしいぞ」
「それを見抜ける人間はほとんどいないと思いますよ……あの男は最上位魔族の一人です。俗な言い方をすると魔王」
軽く返ってきた答にオスカーは唖然と口を開けた。
魔族は一般的に上位になるほど人間に興味がなくなる。ティナーシャの精霊のように上位魔族が人間界に来ていること自体稀なのだ。ましてや最上位の魔族が来ているなど何の手違いだと言いたくなる。
驚きが伝わったのか、ティナーシャは苦々しくも笑った。
「あの男だけは別でして……人間が面白くてしょうがないみたいなんですよ。よく人の人生に干渉しては引っ掻き回してます。王宮に潜り込んで血族争いに手を貸したり、戦争を起こさせたり、ろくなことしません」
「知り合いなのか」
「昼間言ったガンドナの魔族討伐って、あの男が相手だったんですよ」
ティナーシャは膝を立ててその上に頬杖をついた。小さく溜息をつく。
「その時は追い出すのに成功しましたが、結構深手を負いましたね。私は友人だと思ってますが、意見はまず合いませんし、何回か殺し合いもしてるので向こうもそう思ってるかは分かりません」
オスカーは、途方もない話に疲労感が増す気がして頭を二、三度振った。まさか最上位魔族を見る日が来ようとは思っても見なかった。話の中だけの存在のような気がしていたのだ。
魔女を見上げると彼女は目を伏せて何事か考え込んでいる。その様子が妙に気になって、彼は体を起こすと、座っている恋人の体を抱き寄せ、そのまま組み敷いた。目を丸くする彼女の耳に口を寄せて囁く。
「仲は良さそうに見えたがな」
ティナーシャは一瞬虚を突かれた顔になったが、すぐに鈴のような声をあげて笑った。
「あの男は魔女には興味ありませんよ。それより貴方の方に興味があるようなので、近づかないでくださいね!」
「何だそれは……」
これ以上彼女の話を聞いていると頭痛がしてくるに違いない。
オスカーは女の白い頬に手を添え、自分を写す闇色の両眼を見つめると、顔を寄せ、溜息を注ぎ込むように深く口付けた。
※ ※ ※ ※
ガンドナ王宮の大広間ではその頃、宰相と文官たちが後片付けをしながら忌々しげに愚痴話に花を咲かせていた。他国の者がいないこともあって、自然と矛先は火種を抱えた国へと向かう。文官の一人が吹き抜けの天井を仰いで言った。
「ヤルダも王女が行方不明などと言って来させたくなかっただけじゃないのか?」
「何を考えてるのか分かないな」
「大方腹を探られるのが嫌だったんだろうよ」
「王女が来れば人質にも出来たんだが」
「先にそこまでやっちゃまずいだろう」
宰相であるネルチは、部下たちのやり取りを聞きながら舌打ちする。
―――― もしヤルダが戦端をガンドナに向かって開くつもりであるなら、身の程を思い知らせてやる。大国の一つであるガンドナとヤルダは、国の規模からして格が違うのだ。
だが本当に戦ともなれば、ガンドナの被害も無というわけにはいかない。その為にも出来れば内外ともに地盤を固めておきたかったのだが、今回の式典での主君の立ち回りは、ネルチにとっていささか不満を残すものになっていた。
元々王は戦争に向いている性格ではない。王の子たちもネルチからすると甘やかされて育ち力不足を否めなかった。彼らに継ぐ第三王位継承者のオーレリアは、芯が強く決断力もあったが、親に捨てられて育った為か少々扱いづらい性格の上、背後にはトラヴィスという食えない男もついている。大国も一皮向けば前途は多難なのだ。
ネルチは凝った肩を上げ下げしてほぐした。
それでも同じくヤルダに接しているファルサスと婚姻を結べれば大分状況は好転しそうだが、ファルサスには何しろ魔女がいる。ネルチも一目見たが、ぞっとするような美しさだった。あんな女が居てはガンドナの王女など色褪せて見えるだろうし、何より魔女がファルサスについているということは、元々大国であった彼の国の力が突出するということだ。ありがたくないことこの上ない。
―――― どうせならヤルダもファルサスに復讐戦を挑めばいいのだ……。
ネルチは胸中で罵りながら周りの文官に向かって呟いた。
「まったく魔女は忌々しいな。ろくでもない」
「随分失礼な言い草ですね」
氷のような女の声が突如広間に響いた。
ネルチは氷塊が背中を滑り降りていく錯覚に囚われ、硬直する。辺りを見回すが女などどこにも居ない。空耳かと思いたかったが、他の文官たちも顔色を変えていることからそうではないことは明らかだった。
本能的な恐怖を覚え、ネルチの足が震える。
「誰だ!」
姿は見えない。しかし、女がくすっと笑う気配がした。
そしてその主は歌うように声を紡ぐ。
「誰でもない」
次の瞬間、広間の窓硝子が全て、凄まじい音を立てて砕け散った。
オスカーの部屋から一部屋隔てた控えの間で眠りについていたアルスは、遠くで何かが割れるのを聞いた気がして目を覚ました。反射的に剣を取り体を起こすと、彼はまず奥の部屋に続く扉に異常がないことを確認した。次いで廊下側の扉をそっと開ける。
そこにいた二人の兵士は怪訝そうに将軍を見返した。
「どうかなさいましたか?」
「いや、何かおかしな音がしなかったか?」
「特には気づきませんでしたが……」
気のせいだろうか、とアルスが首を捻りながら戻ろうとしたその時、廊下の向こうで女の悲鳴といくつかの怒声が聞こえてきた。
「何だ!?」
アルスは剣を抜いて廊下に飛び出る。暗闇の支配する通路の向こうに目を凝らした。
何も見えない。
しかし何かが近づいて来る気配がする。
彼は息を整え剣を構えて待つ。
人が走ってくる足音が聞こえた。そしてそれをかき消すような風を孕む音も。
そうして待っていたアルスが見たものは―――― 廊下をかなりの速度で飛んでくる有翼の魔族だった。
魔族は三体。いずれも先だってファルサス城を襲撃したものと同じ姿である。
その内の一体は爪でガンドナの兵士を引き摺っており、兵士は気を失っているのか既に事切れているのか全く動かない。更にその後ろからガンドナの警備兵たちが剣を手に魔族を追ってくるのが見えた。
アルスは息を吐くと共に、先頭の魔族に向かって床を蹴る。体を引き裂こうとする鋭い爪を紙一重で避け、その胴体を全身の力を使って横に両断した。続いて彼は、自分を打ち据えようとする二体目の翼を屈んで避ける。そのまま三体目の元へ走りこみ、兵士を掴んでいる足を切り落とした。耳障りな悲鳴が廊下にこだまする。
後ろでは二人の兵士が将軍に続いて剣を抜き、彼の背後についていた。アルスは少し下がると窓際に羽ばたく二体目に向きなおる。
月光が白々と異形の姿を照らし出す。
忌まわしさを感じる光景にアルスが眉を顰めた時、浮かんでいる魔物の背後、窓の外に、こちらへ向かってくる新手が見えた。十体を越える魔族にアルスは一瞬言葉を失う。爪を失った三体目の魔族に止めを刺したガンドナ兵たちも、それを見て絶句した。
窓際に浮いている魔族があざ笑うかのような金切り声をあげる。それに応えてか魔族の増援は窓硝子を破ろうと鋭い爪をきらめかせた。
だがその時、奥の部屋から無形の衝撃波が巻き起こる。竜巻さながら扉を破った衝撃波は、更に窓を砕いて外にいた魔物を飲み込んだ。硝子の破片と木片が夜空に飛び散る。突然のことに避け損ねた魔族たちは一瞬でその数を半減させた。
人間たちは息を飲んで衝撃波が来た方向を見つめる。壊れた扉の奥から不機嫌そうな男が現れた。夜着を下だけ履き、アカーシアを抜いたファルサス国王は、アルスと生き残っている魔族を見てこれ以上ないくらい嫌そうな顔になる。
「何だ。異常発生中か?」
「お騒がせして申し訳ありません」
アルスが頭を下げた隙に、一体の魔族がオスカーに向かって急降下した。だが彼はそれをアカーシアで軽く薙いで斬り捨てる。廊下に落ちてのたうつを仲間を見た他の魔族たちは、憎しみも顕に金属めいた声をあげる。黒い翼を羽ばたかせ一斉にオスカーへ襲い掛かろうとした。
しかし部屋の奥から再度起こった衝撃波が、残りの魔族を弾き飛ばす。
「―――― オスカー、平気ですか?」
「お前、そんな格好で出てくるな!」
王の魔女は、華奢な肢体に白い布を巻きつけて引き摺っただけの姿で現れると、滑らかな白い肩に乱れてかかる髪をかきあげた。アルスを始めファルサスの兵士は慌てて顔を背ける。
一方、ガンドナの兵士たちは無礼も忘れ突然現れた艶かしい魔女の姿に見入っていた。
彼女はそれを意に介せず、斬り捨てられた魔族の死体に歩み寄ると覗き込む。
「これ……」
彼女が指を伸ばしてその躯に触れようとした時、別の女の、くすっと笑う妖しい気配が廊下に洩れた。
ティナーシャの表情が歪む。
「死にに来たか」
魔女は素早く構成を組む。
その内容に気づいたオスカーが彼女の手を捕らえようと腕を伸ばしたが、一瞬遅く彼女はその場から転移して消え去ってしまった。恋人の手を掴み損ねたオスカーは、伸ばした手を握り締めると美しい魔女を罵る。
「あの馬鹿が!」
舌打ちしてオスカーが窓の外を見ると、大広間の方角には皓々と明かりがつけられ、人の声が騒がしく夜を賑わしていた。
夜の空を駆ける魔女は、魔族の召喚主を追いながら先日の一件のことを思い出していた。
ファルサスを襲撃されたあの時もこうやって犯人を追っていた。だが結局は城から離されすぎて心配になった一瞬の隙に、逃げられたのである。
―――― 今度は長く逃がす気はない。
ティナーシャは前を行く女目がけて、素早く構成を放った。銀糸の網が逃走者を囲い込むように空に広がる。突如目の前をふさがれた女は、止まることも出来ず魔力で出来た網にぶつかった。たちまち網は女の全身に絡みつき締め上げる。ティナーシャは相手の前方に転移すると、その顔をまじまじと見据えた。
緑色の長い髪を持つ若い女は、初めて見る顔である。ティナーシャは空中で腕組みをして彼女に問うた。
「目的は何だ?」
女は赤い唇を笑みの形に刻む。
「我が主の命により……」
それ以上は答える気がないらしい。挑戦的な態度に、ティナーシャは残酷な微笑を浮かべた。
「主とは誰だ」
「誰でもありません」
「ならばここで死んで行け」
魔女は右手を前に差し伸べた。そこに力を集める。
複雑な構成ではない。単純に敵を消し去る為の強大な力が現出する。
しかし女はそれを見ても薄く笑ったままだ。ティナーシャは無言で力を女に向かい打ち出した。防げる者もほとんどいないであろう、必殺の一撃が宙を貫く。
だが圧倒的な攻撃を女が身に浴びるように思われた刹那、そこに転移門が開かれた。女が開いたのではない、誰かが向こう側から開いたのだ。同時に緑髪の女の背後から、剣を帯びた一人の男が風のように飛び込んでくる。男は女を抱き取ると、そのまま転移門に滑り込んだ。
門は一瞬で閉じられる。ティナーシャは事態の理不尽さに思わず叫んだ。
「何それ!?」
標的を失った力は、そのまま夜空を貫いて行く。ティナーシャが慌ててそれを留めようとしたその時、けれど力は空中で何かにぶつかり四散した。
そこには一人の男が浮いている。
「お前、喧嘩売ってるの?」
魔女の力を防ぎきったトラヴィスは、唖然とする彼女を見返すと不愉快そうに吐き捨てた。
「何でこんなところにいるんだ」
ティナーシャからの当然の疑問に、トラヴィスは唇を曲げた。
「転移門に飛び込んだ男の方を追ってきてたんだよ。オーレリアを殺そうとしやがった。舐めてるにもほどがある」
殺意に溢れる男の目に、魔女は裸の肩をすくめた。自分より怒り狂っている存在が隣に居ると、人は冷静になれるらしい。何が起きているのか改めて事態を確認したくなる。
「彼女は大丈夫なのか?」
「結界張ってきたし配下もつけてる。それより何その格好」
言われてティナーシャは自分の格好を見下ろした。みるみるうちに顔が蒼ざめる。
「お、怒られる……」
慄く魔女を意地の悪い目で見返したトラヴィスは、少し気が晴れたのか小さく笑った。
ティナーシャは部屋に戻ると、延々と続くオスカーの説教を聞きながら服を着た。制止されるのを振り切って追った挙句、取り逃しては何も言えない。水飲み鳥のように恋人の苦言に頷く。
オスカーは考えられる限りの批判の言葉を全て口に出してしまうと、服を着終わった魔女の頭を軽く叩いた。
「ガンドナは宰相が殺されたらしい。他にも被害が出てるようだ。で、お前が帰ってきたら聞きたい事があるから来て欲しいそうだぞ」
「うわぁ、嫌な予感」
「まったくだ」
何を聞かれるかは大体想像がつく。
うなだれた彼女とオスカー、そしてアルスが案内を受けて大広間に着いた時、既にそこにあったのだろう死体は片付けられていた。ただ飛び散った硝子の破片と夥しい血の痕はそのままで、襲撃の凄惨さを残している。
彼らを呼び出した本人であるガンドナ王は、蒼ざめた顔で広間の中央に立っていた。王はオスカーを認めると頭を下げる。
「真夜中にお呼びたてして申し訳ない」
「非常事態ですから。この度は大変なことになりまして。これに用とのことですが何のお話でしょう」
オスカーの隣でティナーシャは礼をした。その美しい姿をガンドナ王は畏怖と嫌悪の目で見つめる。
「生き残った文官の話では、件の犯人の女は、ネルチの……殺された宰相の魔女への批難に反応して魔物を召喚したそうです。―――― そこで問いたいのですが、貴女はその時何処に居ましたか?」
「私は王の部屋におりました」
ティナーシャは闇色の目で真っ直ぐガンドナ王を見返す。オスカーが後を引き取って続けた。
「その犯人の女は後にこちらにも魔物を差し向けています。召喚主の気配を別に感じましたし、それ以前ティナーシャが私の部屋に居たことはそちらの兵士も見たことと思いますが」
「確かに報告は受けております。しかし魔女殿ともなれば配下の者もおられましょう。疑いをそらすために自分のところにも来させただけだとは言えませんか? 現に我が国の者は二十名余りが犠牲になりましたが、そちらには一人もいない」
アルスは王の言い草に、元の人数が違うだろう、と文句を言いたくなったがそれを堪えた。
オスカーとティナーシャが沈黙している為、ガンドナ王は更に続ける。
「大体襲撃後、何処に行かれていたのです。配下に事の首尾を報告させていたのではないですか?」
「わたくしは召喚主を追っていました。力及ばず取り逃してしまいましたが……」
「それを見ていた者はいないのでしょう?」
「私が見ていましたよ」
突然現れた新しい声の主に、一同が振り返った。
集まった視線の先にはトラヴィスとオーレリアが立っている。トラヴィスは蒼ざめている少女の肩を抱きながら、ガンドナ王に向き直った。
「おそらく同時刻かと思いますが、オーレリアの屋敷に刺客が侵入しました。私はその男を追って、同様に女を追っていた彼女と会いましたよ。刺客の二人は仲間だったようで、共に逃げました」
ガンドナ王は男の言葉に苦い顔をした。
―――― 元々ガンドナ王は、トラヴィスとオーレリアが苦手だった。
オーレリアは彼の姉の孫であるが、妙に勘がいいというか、過去や人の心を見透かしているとしか思えないところが多々ある。幼い頃からそうだった彼女を皆が不気味に思っており、特に彼女の両親などは子供だった彼女を家に置き去りにし、ほとんど家に帰らない生活をしていた。だがある日親の二人ともが事故で亡くなってしまうと、代わりにトラヴィスが彼女の後見人として現れたのである。
トラヴィスはトラヴィスで、実に謎が多い。子供などいないと思われていた先代公爵の死の間際に現れ、その実子であるという証明を得ると、あっというまに公爵の地位を受け継いでしまった。美しい容姿と弁舌でまもなく国内の女性の支持を集めてしまったが、底知れない彼の微笑に警戒心を抱く者も少なくない。
トラヴィスとオーレリアは二人とも頭が切れる。おそらくはガンドナ王自身やその二人の子供たちより。
このまま行けばこの国が彼らのものになるのも時間の問題かもしれない。―――― 王はそんな危惧に悩まされていたのだ。
王は渋面で一同を見回したが、結局オスカーとティナーシャに向かって頭を下げると「疑って申し訳ない」と引き下がった。
「助けてやったんだから礼言えよ」
「……ありがとう」
一同は場所を変え、城近くにあるオーレリアの屋敷でお茶を飲んでいた。オスカーの部屋付近は魔物との戦いの影響で窓や扉が破壊され、使える状況ではなくなってしまったのだ。
ガンドナ王からすると、自分が代わりの部屋を指示しなくてはならなかったのだが、ティナーシャを疑った気まずさゆえか、まごついている間に、オーレリアが「よろしければお越しください」とオスカーに申し出た。結局この夜は全員にすっきりしなさを味わわせながら、事実上の解散を向かえたのだ。
アルスは警備の為、兵士と共に屋敷の外を見回っており、部屋でお茶を飲んでいるのは四人だけである。オスカーは最上位魔族だというトラヴィスを興味深そうに見つめていたが、その視線をはずすと隣りの魔女の頭を叩いた。
「お前は疑われやすいんだから、外でほいほい居なくなるな。どうせ行くならきっちり仕留めて来い」
「自信あったんですけどね……まぁでもおかげで犯人の目星はつきました」
「何だ、見知った顔だったのか?」
「女の方は知りません。あれは半妖かな? 純粋な魔法士じゃなさそうです。でもトラヴィスが追ってた男の方は知ってますよ」
ティナーシャは顔をあげてトラヴィスを見た。彼は嫌そうな顔をして魔女を見返す。
二人はしばらく口に出したくなさそうに沈黙していたが、オーレリアがトラヴィスの背中を叩いた。
「何よ! 知ってるならはっきり言いなさいよ!」
「言いたくないな」
「同感。同じ人間を思い浮かべてるか一緒に言いますか……」
魔族の王と魔女の二人は、顔を見あわせると息を軽く吸った。
そして同じ名を口に出す。
「レオノーラ」
二人はお互いの予想が揃っていたことを確認して、激しく脱力した。
トラヴィスは「子供はもう寝ろ」と言いながらオーレリアを追い払った。彼女は不満そうに口を尖らせながらもそれに従う。
彼が戸口から戻ってくると、オスカーは魔女に尋ねた。
「で、レオノーラって誰なんだ?」
「『呼ばれぬ魔女』です……」
「……魔女か!」
「男の方はレオノーラの片腕の剣士ですし、彼女が黒幕だと思えば貴方とオーレリアが狙われた訳も分かります」
「何でだ。覚えがないぞ」
眉を顰めるオスカーにトラヴィスが頬杖をついて答えた。
「レオノーラはこいつのことが嫌いだからな」
「絶対お前の方が憎まれてるだろ! ひどい捨て方したらしいじゃないか!」
「俺はあんな女のことは忘れた」
しらじらとトラヴィスは受け流す。
そのやり取りを聞いて、オスカーはようやく事態が飲み込めてきた。要するにここに居る二人は呼ばれぬ魔女の私怨を買っているのだ。その為それぞれの相手が狙われたのだろう。
或いはトラヴィスが魔女に興味がないというのは、レオノーラとの過去のことが原因なのかもしれない。
「とにかく俺はもう顔も見たくないから、お前が殺して来いよ」
魔族の王である男は、なんということのないように魔女に軽く言った。ティナーシャは眉を寄せる。
「殺したいのは山々だが、何処にいるか分からん」
「ヤルダにいる。王子に取り入ってるらしい」
その情報に、オスカーとその魔女は顔を見合わせた。
翌日ファルサスに戻ってきたオスカーは、執務室でアルスとクムを呼び、ヤルダにいるという三人目の魔女について話をした。全てを聞き終わったクムが深い溜息をつく。
「何でまた魔女が……」
「その魔女が先日の襲撃の黒幕なんですか?」
アルスの質問に、オスカーの隣に立つ魔女は肩を竦める。
「まず間違いないですね。アルカキアを使ったのも、いかにもやりそうなことです」
「ヤルダの王子が契約者ということでしょうか」
「いえ、契約という概念があるのは私と、水の魔女だけです。レオノーラは……ほとんど知られていないことなんですが、国に寄生する魔女なんですよ」
オスカーがそれを聞いて眉を跳ね上げた。彼は横に立っている魔女を膝の上に抱き取ると、その顔を覗き込む。
「どういうことだ。魔女は国や戦争に干渉しないものじゃないのか」
「表向きはそうなんですがね。レオノーラは違うんです。彼女は権威が欲しいわけではなくて、国を影から育てたり滅ぼしたりするのが好きなんです。自分はほとんど魔法を使わず、寵姫などとして入り込んで人を操ります。魔法薬ではない毒を使った暗殺などはお手の物ですね」
三人の男は絶句した。まさかそんな魔女がいるとは思ってもみなかった。魔女といえば強大な魔法を使って正面から災厄を起こすという印象があったのだ。まさか魔法を使わず国を蝕む魔女など想像の範囲外だ。
ティナーシャは男の膝の上で両手を広げた。
「彼女は何と言うか人を惹きつける不思議な魅力がありましてね。魔女の中では珍しく多くの配下と共に行動していますし、王族や貴族を篭絡するのも容易いみたいなんですよ」
「人の心を操るのか?」
「いえ、そういうのはルクレツィアの特技です。レオノーラは魔法を使うんじゃなくて、天性の魅力みたいですね。彼女が突出しているのは、召喚と人間の体の操作……治癒や変質になります。最上位魔族を召喚できたのは多分歴史上彼女だけだと思いますよ」
「ひょっとしてそれがあの男か」
「ご名答。色々あったみたいですけど、興味がないので聞いたことないです」
苦笑する魔女に、クムが疑問を呈した。
「ティナーシャ様も精霊を使役なさっていますが、召喚の腕にそんなに差があるものなのですか?」
「精霊は私が召喚したものではなくて継承しただけですからね。一からあれだけの魔族を召喚するのは私には無理かもしれません。ファルサスの襲撃も、本人が来ていたらさすがに気づいたでしょうが、配下を寄越していましたし。でも本人が来ていたらもっときつかったでしょうね……」
ティナーシャの言葉の軽さとは反対に、部屋には重い沈黙が訪れる。
相手の力の強大さは分かったがどう出るべきか、オスカーは首を捻った。膝の上の魔女が彼を見上げる。
「じゃ、私ちょっと行って殺してきますね」
「却下」
「ばれないようにやります」
「お前の単独行動は基本的に禁止だと思え」
信用がまったくないことを突きつけられ、ティナーシャは項垂れた。だが過去のことを思えば無理もないかもしれない。
アルスが書類を見ながら口を挟む。
「ヤルダがおそらく今回の一番の被害者なんですよね。内部分裂しているということは、呼ばれぬ魔女は今地固めの最中なのかもしれません。それを終えてからファルサスに来るか、ガンドナに来るかだとしたら、今のうちに王子の反対勢力に接触しては如何でしょう」
「なるほど」
王は腕組みをしようとして膝の上の恋人の存在に気づき、代わりに彼女の頭に顎を乗せた。目を閉じて考えを纏める。
「行方不明になった王女が何か知っているかもしれんな」
彼は三人に二、三指示を出す。
アルスとクムはそれを受けて部屋を出て行った。
オスカーは魔女と二人きりになると、彼女の首筋を撫でながら気になっていたことを尋ねた。
「で、何でお前は、呼ばれぬ魔女に恨まれてるんだ?」
「何ででしょう……戦ったことは一度しかないんですけどね。寄生虫とか罵ったのが不味かったんでしょうか」
「お前時々凄いこと言うな……」
「向こうも結構色々言ってましたよ。お互い様なはずなんですけど」
ティナーシャはしらっと答えたが、内心は沸き起こる感情に冷笑を浮かべていた。
どういう理由があって自分を嫌っているのかは知らないが、今回先に手を出して来たのは向こうである。相手が分かった以上二度と手出しができないように、可能なら抹殺するつもりだった。
オスカーは、魔女の目を浮かべる恋人に顔を顰める。
「勝手なことするなよ」
「私に任せてくれれば早いんですが……」
「俺はお前を待つのが好きじゃない。それに配下もいるんだろう? 何かあったらどうする」
魔女は顔を上げて背後の男を見返した。彼の顔を包み込むように両手を頬に触れさせると、そこを支点にして逆さに宙へ浮く。闇色の瞳が、深淵そのものの深さを湛えた。
ティナーシャは微笑する。美しいその微笑みは、研ぎ澄まされた刃の美しさだ。
「―――― 私は、貴方を殺そうとした人間を決して許さない」
殺意を結晶化したような声に、オスカーは戦慄した。
彼女は嫉妬心を持たない。それは愛した人間を殺さない為の無意識の防御だ。愛情が深ければ深いほど、彼女の殺意は研がれていく。彼はその底知れなさを思う。
―――― いつか彼女の刃が自分を殺すかもしれない。
ふっとそんな幻想が脳裏をよぎった。
しかしそれでもオスカーは一度取った魔女の手を離す気はなかったのだ。
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