第35話 白紙の子供 02


 新年を直前に控えた夜、ファルサスは不思議なざわめきに満ちていた。

 城の中は儀式の為の準備で騒がしく、女官や文官があちこちで走り回っているのが見受けられる。ファルサスの慣習をよく知らないティナーシャなどは、儀式は年が明けた朝か昼に行われると思い込んでいたのだが、実際は真夜中に行われ、神殿で年越しをする形になる。

 将軍の正装をし、城門の内側で警備の最終確認にあたっているアルスは、祝いの空気に混じって街で漂ってくる振舞い酒の香りに目を細めた。

「飲みたいなぁ……」

「仕事中」

 後ろから背中を殴られる。

 振り返ると、伸び始めた髪を軽くまとめた幼馴染がそこには立っていた。大陸では女性は髪を伸ばすことが一般的とされているが、メレディナは今まで仕事上、肩につかないほどに切り揃えていたのだ。

 だが今はその髪も肩より少し下まで伸びている。彼女は濃い紅色を基調とした武官の正装を身につけていた。

「天気が崩れそうね」

「城に戻るまで持てばいいけどな」

 二人は空を見上げた。夜空はどんよりと暗い。時折雲の切れ間から細い月光が差し込むくらいだ。雨になれば祝いの空気にも水が差されるし、警備も大変になる。出来ればぎりぎり降らぬまま終わってほしいものだ、とアルスは零した。

 出発まであと半時余り。準備は万端である。



 一方魔法士たちは、あらかじめ神殿に詰めている者と城から出発する者に分かれていた。他に道中にも兵士と魔法士が警備の為に配備され、それらの者は既に城を出ている。

 クムとドアンは正装に身を包み、出立する一行が控える広間で魔女が張った構成に接触し道中の様子を探っていた。ティナーシャが構成に干渉できる許可を与えているのは彼らを始め信用できる十人足らずの魔法士のみである。それでも術者本人であるティナーシャとは大分知覚の精度が変わってくるので、真の監視者は実質魔女一人だ。

 二人の魔法士は監視構成を手繰ると顔を見合わせた。

「今のところ不穏なものはないようだな」

「神殿にも変わりはないようです」

 彼らはほっと息をつく。先月城を襲撃した魔物の召喚主もまだ捕まっていないのだ。用心をしてしすぎるということはなかった。


 その時奥の扉が開いて国王が入ってくる。彼は歩いてきながら自分の装備を確認すると、クムに目を留めた。

「どうだ?」

「問題ございません」

「そうか」

 ―――― ファルサス王の正装は、昔から戦うことを意識した格好である。

 金属鎧と沈んだ赤色の外衣を纏い、アカーシアを佩いた王の姿は、勇壮と威厳に溢れ端正な容姿と相まって実に絵になった。肩の上では小さなドラゴンが置物のように鎮座しており、非現実感を醸し出している。

 オスカーは部屋の中を見回すと首を捻った。

「ティナーシャは?」

「ご一緒かと思っておりましたが」

「いや、会ってないぞ」

 誰かに呼びに行かせようかとオスカーが口にしかけた時、ちょうど魔女が入ってきた。気配を感じて振り返った三人はその姿を見て唖然とする。

 彼女は魔法士の正装を着ていた。

 が、それはファルサスのものではなくトゥルダールの儀礼用の正装である。トゥルダールの王族が纏う深い青と白を基調とした長衣には複雑な紋様が刺繍されており、彼女の体に添って緩やかに曲線を描き足元で広がっていた。長い黒髪は一部を残して結い上げられ、水晶を列ねた額飾りと耳飾をしている。

 透き通るような神秘を具現した様相の魔女に、オスカーは驚きを隠せなかった。

「どうしたんだそれは」

「シルヴィアとパミラに捕まりました」

 化粧もされているところをみると、かなり徹底的にやられたらしい。トゥルダールの宝物庫に沢山保管されていた魔法着や正装を、二人の女は嬉々としてティナーシャの為に持ち帰っていたのだ。

 最近では魔女も、着せ替えされることに慣れてきたのか、多少の渋面で受け流している。魔法着はトゥルダールの服のためか、手甲に嵌められた水晶をはじめ、ほとんどが魔法具で出来ているようだった。

 ティナーシャは顔を上げてオスカーの全身を一瞥する。

「元が綺麗だからそういう格好も似合いますね」

 さらりと言われて彼は苦笑した。

「お前に綺麗と言われると変な感じだ。というか男への誉め言葉じゃないぞ」

「そうですか? 率直に誉めてるつもりですが」

 ティナーシャは首を傾げながらクムの隣に立つ。オスカーは彼らを見回して一息ついた。

「じゃあ行くか」

 王の命令に居並ぶ全員が礼をする。

 広間の扉を開くと、彼らは城門に向かって歩き出した。



 兵士たちが先導し、街の東へと伸びる大通りへの道を開けていく。民衆は道の脇に避けながら、王が通るのを一目見ようと集まっていた。

 アルスが率いる武官たちに続き、魔法士たちと王の一行が姿を現す。途端、真夜中の街が激しい熱狂に湧いた。ファルサス王家は代々民からの人気が篤いのだ。

 大人たちの隙間からその行列を覗いていたサイエは、王のすぐ後ろ、自分の馬に横座りになっている女に気づき息を呑んだ。手綱を取っていないにも拘らず、きちんと進んでいく馬の上で彼女は目を閉じている。

 服装が異なるため、不思議な迫力と畏れ多さを感じさせる美貌の主はしかし、確かに塔で会った女だ。サイエはてっきり彼女が魔女だと思い込んでいたので仰天してしまう。だがそういえば、彼女は王のことを知っているような口ぶりであったし、魔女ではなく、城の魔法士だったのかもしれない。

 一行が通り過ぎてしまうと、道はふたたび群集で埋まっていった。

 王が次に戻ってくるのは年が変わる一時間後のことだ。サイエは今見た女のことを友達に話そうと、その場を離れ駆け出した。




 神殿へは何事もなく到着出来た。一同は少しだけ胸を撫で下ろす。

 白い石で形作られた空間の奥には、七つの石柱が立っていた。それぞれの柱の表面には文字がぎっしりと刻まれている。この石柱がファルサスの信仰する七神にそれぞれ対応しているのだ。

 儀式が始まり神官たちが祝福と祈りの言葉を捧げる中、オスカーは彼らの中心にアカーシアを抜いて立ち、他の者は後ろに控えていた。入り口近くではティナーシャが目を閉じたまま構成に意識を繋げている。

 やがて神官の祝詞が終わると、オスカーが神に捧げる祈りの口上を述べ始めた。それを聞きながらアルスが時間を確認する。

 ―――― 予定通り、もう年が明けるところだ。

 赤い葡萄酒の入った杯が、巫女たちの手で控えていた者たちに配られ始める。王もまた口上を終えると、用意されていた酒瓶を手に取った。それを彼は祭壇上で三つの杯に分ける。

 オスカーは瓶を置くと、最初の杯を手にとってその中身を地に、二杯目を空に振りまいた。最後の杯を手に取ると、それを飲み干す。

 臣下たちがそれに続いた。新年を祝う声がわっと上がる。


 ティナーシャは目を僅かに開くとその光景を眺めた。彼女はファルサスの人間ではないので葡萄酒に口はつけない。元々酒にそう強い方ではないのだ。構成に繋がっている最中に口にしたくなかった。

 ―――― だがそんな理由は実際、建前に過ぎない。

 彼女は、この輪の中に入ることにやはりまだ抵抗があった。馴染んでしまっていいのかという不安と恐れが彼女を捕らえて離さない。こんな不安を、彼の母親も感じていたのだろうか……ふとそんな疑問が浮かぶ。詮無い想像に魔女は苦笑した。

 様々な人間の運命を乗せて、時は進んでいく。

 第二十一代国王の下、ファルサス暦五百二十七年が始まろうとしていた。




「ご苦労だった。残り半分よろしく頼む」

 オスカーが護衛の人間たちに簡単なねぎらいの言葉をかけると、彼らはそれぞれの面持ちで頷いた。神殿を後にした一行は、暗い草原を魔法の明かりを灯しながらゆっくりと戻っていく。いつの間にか空気が湿ってきており、今にも雨が降り出しそうだ。

 オスカーは振り返ってすぐ後ろにいる魔女を確認した。彼女は相変わらず流れ込み続ける知覚を確認するために、目を閉じたままである。声を掛けようか迷った時、ふと彼は何かを感じて無言でアカーシアを抜いた。同時に魔女の詠唱が聞こえる。

「定義する―――― 我は召喚と支配を命ず。雷よ 現出し我が命に従え!」

 他の人間が驚きに目を瞠る。次の瞬間地面から天空に向かって、真白い巨大な電光が走った。つんざくような音が耳の奥にまで響き、辺りが一瞬眩く照らされる。

 それが消え去った時、世界には再び静寂と闇が戻ってきた。

 クムが蒼ざめてオスカーに問う。

「いかがなさいました!?」

 王は眉を顰めながらアカーシアを鞘に戻すと

「誰かに見られていた」

 と不愉快そうに答えた。それを聞いて一行にどよめきが広がる。

 オスカーが魔女を振り返ると、彼女は閉じていた闇色の目を開いて苦笑した。

「逃げられました。もういません」

 そう言うと彼女は白い指を鳴らした。



 突然東の空で雷光の柱が立ち、城都にいた人間たちは波のようにざわめいた。街角のあちこちから王の無事を心配する声が上がる。城に残っていた者たちも動転する中、魔法を通じて王の無事を知らせる報告が入ったのは直後のことだった。ひとまず城内には安堵が広がる。

 一方その頃、街を抜け出して神殿に向かっていたサイエたち五人は、巨大な電光に足がすくんでいた。このまま進んで確かめるべきか、街に戻るべきか逡巡する。

「どうするんだよ、サイエ」

「お前が行こうって言ったんだぞ」

「うるさいな。陛下に何かあったらどうするんだ」

 少年たちが言い争いを始めてまもなく、視界の先に王の一行が現れた。

 サイエたちはほっと安心したが、同時に慌てて隠れるところを探す。子供たちだけで街を離れて王を見に行ったと知れたらどんな罰を受けるか分からない。彼らは近くの茂みに何とか腹ばいになって、前を通る一行をやりすごそうと息を潜めた。

 しかし一行がちょうど茂みの前に差し掛かった時、美しい女の声が叢に掛けられる。

「サイエ、出てきなさい」

 名前を呼ばれた少年は思わず飛び上がりそうになった。何とかそれを堪えたのだが、他の四人につつかれて仕方なく立ち上がる。そんな彼を、王の一行は皆、馬足を止めて見つめていた。中心近くにいる女が眉を顰めて彼を見る。

「私の説教を理解してなかったんですか? こんなところまで来て」

「……ごめんなさい」

 サイエは素直に頭を下げた。ここで言い訳をしても仕方ないと思ったのだ。

 ティナーシャは苦笑すると彼を手招きで呼び寄せる。魔女のすぐ傍まで来た少年をオスカーは面白そうに眺めた。サイエは緊張に固くなってオスカーを見返すと、頭を深々と下げる。

「陛下、失礼しました。つい気になって」

「構わんが、気をつけろよ」

 ティナーシャは手を伸ばすと、サイエを自分の馬に上げ隣に座らせた。叢に釘を刺すことも忘れない。

「他の四人も出てきなさい。雨が降りそうだから一緒に帰りましょう」

 ばつが悪そうに出てきた四人を、臣下たちがそれぞれ引き取った。 一行は再び進み出す。



 サイエは隣に座る女に小声で尋ねた。

「お姉さん、どうして分かったの?」

「警戒してますからね。誰か近づけば分かります」

 女の言葉にサイエはがっくり首を垂れた。そもそもこんなところまで来たのは彼女が本当に塔にいた女か知りたかったからなのだが、目的は達したのに何故か失敗した気分でいっぱいである。

 少年は溜息をつくと、ふと暗い夜空を見上げた。雨の感触を感じたのだ。

 その感覚は的中した。すぐに雨が粒となって降ってくる。アルスが先頭で舌打をした。

「間に合いませんでしたか。陛下、雨避けを……」

「平気だ」

 オスカーは肩をすくめた。もう街が見えてきている。そう長くはかからないだろう。むしろ魔女を気にして振り返ると、彼女は隣りの少年と何か小声で会話をしていた。視線に気づいたのか闇色の目が彼を見返す。悪戯っぽい光がその中にあった。

 ティナーシャは唇を上げて微笑みながら、両手を広げる。

「変質を望む。形相は変わらず、落ちていくのみ。凍える吐息を転換の手とせよ」

 白い両手の中に構成が生まれた。

 構成は彼女の腕の中を離れてゆっくりと広がりながら上昇していく。

 それが上空に消えるのと入れ違いで、雨がやんだ。

 怪訝に思った一行が顔をあげると、ちょうど暗い空から雪が舞うように下りてくるところだった。



「ほら見ろ! 言っただろ!」

 サイエが喜色を浮かべて友人に叫ぶのを、ティナーシャはくすくす笑いながら眺めた。子供たちだけではなく、他の人間も信じられないといった顔で雪を見ている。

 オスカーは手の平に落ちた雪片が溶け去るのを見て、魔女を振り返った。

「どうやったんだ?」

「水分だけ上空から冷やしました。私の周囲限定ですが、払えば雨より濡れませんよ」

「こういうものなのか……」

 彼は呟きながら魔女の言うとおり、膝に落ちた雪を払う。空気は冷やされてない為か、地面に落ちた雪はあっという間に消え去った。見上げると闇の中をゆらめく雪が実に幻想的な美しさを展開している。

「お前といると、世界が広がるな」

 オスカーの言葉に、ティナーシャは目を閉じて微笑んだ。



 一行は街につくと子供たちを下ろした。街は王の帰りと、初めて見る雪にかつてない熱狂を見せている。サイエは名残惜しそうに女に向かって手を振り、彼女は笑いながらそれに応えた。

 結局、草原で感じた不審な視線の他には何も起こらないまま、オスカーたちは無事に入城した。慌しく城内を移動すると、王は露台から民衆に姿を見せて口上を述べる。

 巨大な構成を維持し把握していたティナーシャは、さすがに疲れてオスカーがいる露台のある部屋で、長椅子に横になっていた。睡魔に襲われそうになりながら、それでも露台に結界を三重に維持している。

 王は挨拶を終えて露台から下がると、心配そうに彼女を見下ろした。

「大丈夫か?」

「平気です。ちょっと神経を張ってただけです」

 周囲では護衛にあたっていたアルスやクムが、全て終わったことにほっと息をついていた。オスカーは笑いながら彼らを振り返る。

「ご苦労だった。アルスは飲みに行っていいぞ」

「……恐縮です」

 肩の荷が下りたアルスは一礼すると部屋を退出していく。おそらくメレディナでも誘って街の騒ぎに参加するつもりなのだろう。クムは二、三、ティナーシャに構成の後処理について確認をとると退出した。他の兵士たちもいつもの警備位置に戻っていく。

 オスカーは最後にぐったりしている魔女を抱き上げた。

「自分で歩けますよ……」

「まぁ甘えとけ」

 ティナーシャは反応に困った顔をしたが、小さく頷くと男の胸にもたれかかった。彼はそのまま廊下を歩き出す。


 魔女はふっと浅い息を吐いた。

 ―――― 以前はとても、このように抱き上げられて歩かれることに耐えられなかった。

 だが今はもう平気だ。それが四百年前の清算を終えたためか、あるいは彼女を抱き上げている男のためかは分からない。

 ティナーシャは眠りそうになる意識を何とか引き戻しながら男に囁く。

「この間の話ですが……」

「どの話だ」

「結婚の」

「ああ。何だ?」

「やっぱりあと少しだけ、考えさせてください。契約が終わるまで……」

「分かった」

 あっさりと返ってきた返答にティナーシャは安心した。

 本来なら契約は年が明けてまもなく終了になるはずだったが、彼女がファルサスを離れクスクルに身を寄せていた一ヵ月半のことは、暗黙のうちに契約期間から除外して考えられている。実際の契約終了まではあと二ヶ月弱というところだ。これだけの時間があれば、今後の身の振り方と向き合うことも出来るだろう。


 オスカーは腕の中の魔女を見下ろした。

 正装をしたままの彼女には、捕らえどころのない非現実的な雰囲気が漂っている。そのままかき消えてしまいそうな空想を思い浮かべて、彼は苦笑した。

「親父にちょっと聞いたんだがな」

 ティナーシャはびくっと体を震わせると顔をあげた。闇色の目で彼を見つめる。

「自分も我儘を言って結婚したから、俺にそのツケを回す気はないとさ。問題ないから好きにしろと言ってた」

「そうですか……」

「まぁ俺は生んでもらってよかったぞ。今ここにいられるしな」

 男の言葉に魔女は、少し淋しそうに微笑んだ。目を伏せると「同感です」と呟く。

 四百年の時を隔てて生まれた、本来出会うはずのない二人は 些細な時の積み重ねに感謝しながら、これからの時を重ねていく。それがほんのつかの間のことになるのか、それとも緩やかに続いていくのか、今はまだ見当もつかなかった。




 ※ ※ ※ ※




 暗い部屋には月光が差し込んでいた。

 窓から見える空には雲ひとつない。楽しそうな女の声が響く。

「どうだった?」

「相変わらずのご様子でした。ただ……少し構成が変わり、魔法が弱くなったかもしれません。私の気のせいかもしれませんが……」

 答える男の声に、女は目を瞠った。

「男に落ちたか? 死にかけたばかりなのに甘いわね。精霊魔法で取り繕っていた化けの皮がはがれたのなら面白いのだけれど」

 女は形の良い両手の指を組んだ。

 目を伏せて考え込む。角度によって青にも見える緑の瞳に残酷な悦びが浮かんだ。

「まぁいいわ。隙があるようなら殺してしまおう。この遊びが一段落ついたらね」

「ご随意に」

 主人の言葉に男は頭を深く垂れる。

 彼らの言葉を聞く人間は誰も居なかった。

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