第34話 白紙の子供 01
広い寝室は深海の如き静謐によって包み込まれていた。
窓から注ぎ込む月光が、女の長い黒髪を照らし眩い艶を浮き立たせている。絹糸に似た髪はまとめて寝台の端に流されている為、うつ伏せになっている彼女の白いうなじと背中とが暗い部屋によく映えていた。
ただその肌の白さが艶かしさよりも清冽さを思わせるのは、女の纏う雰囲気のせいなのかもしれない。オスカーは隣りにいる彼女の姿をじっと眺める。
ティナーシャは敷布の上に両肘をついて上体を僅かに起こし、掌上に魔法の構成を作っては何度もそれを崩し作り直していた。男はその様を興味津々といった様子で見やる。
「やっぱり魔法を使いにくいのか?」
「精霊魔法は構成を組むのに要る魔力がかなり増えましたね。これは確かに普通の精霊術士は使えなくなりそうです。ちょうどいいんで構成自体を少しすっきりさせようと思ってます。たまにはこういうことしないと腕が鈍りますからね」
十ヶ月以上も守護者であった魔女が恋人になってから一週間。
純潔でなくなれば魔法が使えなくなると一般に言われる精霊術士において、最強の魔女たる彼女もその例外に完全にはなりえなかった。
ただ元々の魔力が桁違いであり、精霊魔法以外の魔法も駆使する彼女にとっては、この変質もちょっとした技術確認の機会に過ぎないのかもしれない。時間さえあれば構成の調整に精を出している。
熱心に掌の上の構成に集中している女を見て、オスカーは指を伸ばすとその背を撫でた。魔女はくすぐったいのか身をよじって避けようとする。彼は長い黒髪の一房を指に巻いて引いた。
「式はいつにする?」
「何のですか?」
ティナーシャは顔を傾けて男を見た。闇色の瞳が部屋の何よりも深い黒を帯びている。オスカーは顔を寄せると彼女の左瞼に口付けた。
「結婚の。婚姻の契約を済ませればお前もファルサス王族の権利を持つ」
彼女の反応は、オスカーの予想していたどれでもなかった。すっかり忘れていたことを思い出したような、驚愕の表情を浮かべている。嫌な予感がして、オスカーは眉を顰めた。
「何だその顔は……」
「い、いえ……」
ティナーシャは手の上の構成を消してしまうと、寝台の上で頭を抱えた。
しばらくそうしていたが、やがて顔を上げると非常に言いにくそうに口を開く。
「結婚はちょっと……」
「何か言ったか?」
「痛い!」
男にこめかみを締め上げられて、魔女は悲鳴をあげた。再び頭を抱える彼女を、オスカーは腕の中に閉じ込める。彼は間近になった魔女の美しい顔を睨んだ。
「何だそれは。喧嘩を売ってるのか?」
「そういうつもりではないんですが……結婚は別の問題です。どなたか別の方を王妃にして子供を生んでもらってください」
「お前が魔女だからか?」
「それもあるんですが、それだけではなくて……まぁ色々」
歯切れが悪くそう言うとティナーシャは目を閉じた。途端に感情が読めなくなる。オスカーは少し不安になって彼女を抱きしめる腕に力を込めた。
「お前、契約が終わったらいなくなろうとか思ってるんじゃないだろうな」
「実はちょっと思ったんですが、貴方が烈火の如く怒りそうなんでやめます」
「よく分かってるじゃないか」
余裕で返しながら、その実、彼は安堵した。この魔女が本気で姿をくらまそうと思ったら、それを見つけ出すのは困難を極めるだろう。彼女を失う可能性がまず消えたことを素直に喜ぶ。
だが、安心しながらもここで妥協したくはなかった。
「大体、別の女を王妃にとか鬼か。その女が気の毒だろう」
「王族の結婚なんてそんなものじゃないですか。相手も身分ある家の方なら覚悟はあるでしょう。私には少なくともありましたよ」
暗に政略結婚について示唆する魔女の言葉に、オスカーは嫌な顔をした。
―――― 結婚に自由が利かないという覚悟は勿論出来ている。
元々彼は呪いによって結婚さえできないだろうという状況の中育ったのだ。結婚や恋愛についての希望はまったくと言っていいほど持っていなかった。
ただ今は違う。
ファルサスは、オスカーの曽祖父であるレギウスの代から政略結婚をしていない。それはこの国がそういった結びつきを必要としないほど安定した強国になった為であり、今も状況は変わっていない。
父のケヴィンも相手方の親の相当な反対を押し切って、何の身分もない女性を王妃としたと聞いている。必要がある政略結婚ならオスカー自身も承諾するが、何故ティナーシャがそれを拒むのか、はっきりしないうちは納得できなかった。
魔女は確かに歴史上長く忌まれてきた存在だ。
彼女を王妃にすると言ったら国内には反対感情が生れるだろう。それに加えて最強の魔女を擁するようになるファルサスへの、他国の警戒も高まるに違いない。
ただそれらの問題については、何とか出来る自信が彼にはあった。
現に城内での彼女への感情は、当初と比べてほとんどが好意的になってきている。彼女の性格や行い、その素性が皆に知られるようになった為だ。
加えて対外問題についても、ファルサスから他国を侵略するつもりはないのだ。力が使われるとしてもあくまで防衛のためになるだろう。
結論として時間がかかっても彼女が魔女であることは、致命的な障害にはならないとオスカーは信じている。むしろトゥルダールの女王候補として育った彼女は、身分のない女性に一から教育を施すより余程王妃として順応すると思えるのだが、一体何が問題なのだろう。
彼は内心首を捻ったが、ティナーシャは理由を言う気はないらしく、口を覆って小さく欠伸をしている。瞼が重くなってきているのか、長い睫毛が何度か揺れた。
「私は貴方の情人で充分なんですけどね」
「俺はお前を日陰に置く気はないぞ」
「どこが日向でどこが日陰かは本人の意識じゃないですか。欲を出しちゃ駄目ですよ」
魔女はそう言うと、眠気に堪えきれなくなったのか瞼を閉じた。それでも努力してもう一度目を開けると男を見つめる。
闇色の瞳が眠気で溶けつつあるのを見て、オスカーは苦笑した。
「いい。寝ろ」
「……はい」
寝起きが悪い恋人は、眠りにつく時は唐突で早い。瞼を閉じるとまもなく小さな寝息が聞こえ始める。オスカーはそれを確かめると自分も目を閉じた。
―――― 欲を出してはいけない。
魔女の言葉は彼女自身にも、そして彼にも向けられるものなのだろう。
彼女からの執着が欲しくて、それをようやく手に入れたにも拘らず、今度は公私共に自分の隣りに立って欲しいと思ってしまう。これがきっと欲なのだ。
ただそのことが分かっていても、オスカーには譲る気がなかった。別の女性を娶ることは今のところ考えられない。彼女が妻になることをどうしても拒むなら、せめてその理由を聞き出さなければ納得出来ない。
彼はそこまでを考えると、腕の中の恋人を追うように眠りの中に落ちていく。
お互いが違う夢、違う眠りの中にあろうと構わない。
目が覚めれば彼女は確かに傍にいるのだから。
※ ※ ※ ※
オスカーが知りたがるその理由について、情報を得たのは魔女に仕える魔法士のパミラである。朝、部屋に戻ったティナーシャの着替えを手伝いながら、彼女は当然の疑問を口にした。
「どうしてご結婚されないんです?」
「うーん……まぁ、魔女ですし……」
ティナーシャは言葉を濁した。
彼女が王の守護者であり恋人であることは、オスカー自身が隠しもしないというか、むしろ大っぴらにしていることである。前から彼がこの魔女を妻にしたがっていることは、城のほとんどの者が知っていた。しかし当の魔女はずっとそれを意に介していなかったのだ。
あれだけ男を大事にしながらも自分の気持ちに鈍感な主人に、パミラはやきもきすることも多かったのだが、当の魔女もようやくその自覚を得たらしく、最近纏う雰囲気が安定した穏やかなものに変わったことに彼女はほっと安堵していた。
これであとはご結婚だけだとパミラは思っていたのである。そこにきて肩透かしを食らって、彼女はつい食い下がった。
「魔女だなんて仰いますけど、どうにだってなりますわ。折角ご両親様からのヴェールがありますのに」
ティナーシャの自室の片隅には、壁際に置かれた籐の台から床に長く広がる白いヴェールが飾られている。劣化防止の魔法がかけられたそれは、四百年以上前にティナーシャの実の両親が彼女に贈ったもので、今までトゥルダールの宝物庫に保管されていたのだ。おそらくは女王になるはずだった彼女の婚礼の為であろう。
ティナーシャはパミラの言葉にヴェールを一瞥した。少し困ったように微笑むと口を開く。
「パミラ、魔女ってどうやって生れるか知ってます?」
主人の問いに、長い黒髪を梳いていたパミラは手を止めた。
しばらく考えるが答えが分からない。どうしてこんな問いがされるのかも分からなかった。
困惑の気配を感じ取ったのか、ティナーシャは苦笑する。
「魔女は今いる五人、全員例外なく後天的に魔女に成ったんですよ。私みたいなのもいますし、契約で魔力を増大させた魔女もいますが、皆、途中から魔女になったんです」
「そうなんですか……」
パミラは感心した。主人がどうやって魔女に成ったかは知っているが、他の魔女についてはさっぱり分からない。主人の友人のルクレツィアについても詳しいことは何も知らないのだ。
ティナーシャは両袖の釦を留めながら、遠くに思いを馳せるように目を細めた。
「生れた時から魔女だった人間はいません。そんな力のある子供を身ごもれる母親はいませんからね。―――― それが結婚しない理由です」
魔女は小さく笑う。
しかしパミラはその意味を掴みかねて、更に困惑することになったのだ。
※ ※ ※ ※
一年の終わりが近づいてきた。
ファルサスの城都も新年を控え、妙に慌しい雰囲気に包まれている。城内もそれは例外ではなく、今年の資料を纏め終わった文官たちは新年の祝祭の準備に追われていた。
「貴方は当日何するんですか?」
執務室でお茶を淹れながら、美しい魔女が部屋の主人に問う。彼は手元の書類に目を通しながら簡潔に答えた。
「東の神殿に行って簡単な儀式を行なって、街に戻って城から挨拶」
東の神殿は街の外、馬を走らせて三十分程先の草原にあり、辺りには他に何もない。アイテア神を始めとしていくつかの神が祀られているこの神殿は、戦時には戦勝祈願などに使われるが、ここ数年は新年の儀式の他には使用されていなかった。
魔女は軽く首を傾げる。
「転移陣を使うんですか?」
「いや、馬だ。民衆への披露も兼ねてるからな」
「うわぁ……」
ティナーシャは守護を徹底する必要を感じて思わず声をあげた。魔法でも剣でも正面からの攻撃など怖くない。そういった攻撃なら彼一人でも問題ないくらいであるし、守護結界もある。
しかし王を弑そうとする人間はもっと周到で陰湿な手を使ってくるものだ。先日魔物の襲撃に隠れて毒針で暗殺されかかったことを思うと、水も洩らさぬほどの守護をひかねばならないだろう。
魔女はしばらく思案していたが、軽く指を鳴らした。
「あらかじめ神殿と道中に構成を張ってもいいですか」
「構わない。というか頼む。手間で悪いな」
「これくらい何でもないですよ」
彼女は微笑むと、儀式の予定が書かれた書類をオスカーから受け取った。すばやくそれに目を通す。写しを取ろうか、と迷っていたその時、彼女の耳に他の人間には聞こえない呼び声が響いた。魔女は怪訝に思ってその声の主に答える。
「リトラ、何だ」
オスカーが顔を上げた。同時にティナーシャの目の前に彼女の使い魔が現れる。
子供の姿をとっているが性別が分からない使い魔は、一礼すると主人に向かって感情のない声を発した。
「塔に来訪者が来ました」
「閉めてあるだろう」
「閉めてはありますが、来たのは子供たちです」
「はぁ!?」
「十歳前の男の子が五人。会話からしてファルサス城都の子供たちのようです」
「え?」
城都から魔女の塔までは大人が全力で馬を走らせても半日ほどかかる。間にいくつか小さい村や街があるが、それもファルサス国内のもので、旧トゥルダール領地内に立っている塔からはかなり離れているのだ。土地が平坦な為東部に行くよりは容易いが決して近い距離ではない。オスカーとティナーシャは顔を見合わせた。
「いかがいたしましょう。この時間ですと、暗くなる前に子供が街に戻ることは困難ですが……」
魔女は腕組みすると美しい眉を寄せた。
「何しに来てるんだ一体。王が王なら、民も民で無謀だな」
「どさくさに紛れて嫌味を言うな」
恋人の苦情を聞き流すと、ティナーシャは書類を机に戻した。
「何か重要な用事かもしれないんで、ちょっと見てきます」
「気をつけて行って来い」
使い魔が一瞬先に消える。その後を追ってティナーシャは自分の塔に転移した。
何処の国でもない荒野に建つ青い塔は、登りきると魔女が願いを叶えてくれるという伝説がある。
しかしその中には魔物や罠がひしめき、腕試しで挑んだ挑戦者のほとんどが塔から帰ってこないこともまたよく知られていた。おかげでここ百年程は挑戦者自体も滅多に現れていない。
実際は失格になった挑戦者たちは、塔についての記憶を弄られ大陸のあちこちに転送させられている。その為、塔についての情報はほとんど明らかになっていないのだが、ごく稀に記憶操作と転送をまぬがれる失格者たちもいた。彼らは腕試しではなく、強い願いを持って塔を訪ねてくる人間たちだ。
ある者は魔物に攫われた子供の奪回を。
ある者は病気の肉親の治癒を。
譲れない願いを前に他の手段が見つからない彼らは、自分の命と引き換えにする覚悟で魔女の塔を訪れる。―――― ティナーシャはそういった人間の望みは、塔の達成と関係なく出来るだけ叶えてやっていた。
魔女の強大な力をもってしても世界の全てを救うことはできないし、そういったことはやるべきではない、と彼女は魔女になった時に決めている。ただそれでも、覚悟を持って彼女を頼ってくる人間くらいには手を貸したいと思っているのだ。
完全なる沈黙と引き換えに、魔女は望みを叶える。
そしてそれは歴史の裏に更に隠され、決して表に出ることはない。
「さっさと開けろよ、弱虫」
「だってこれ開かない……」
四人の少年が野次を飛ばす中、一人の赤髪の少年が塔の外壁に手を当て、困惑したように答えた。壁には扉と思しき切れ目はあるのだが、押しても動かないし引こうにも持ち手がない。
しかしそれを見て、背後の四人は怖気づいてると嘲りの声をあげるのだ。赤い髪の少年はいい加減腹が立って振り返った。
「じゃあお前らがやってみろよ」
「何で俺らが」
「用があるのはサイエだろ」
彼らは嫌な顔をしながら誰一人その場を動こうとしない。弱虫はどっちだ、とサイエと呼ばれた少年は顔を顰めた。
開かないのだからさっさと諦めて帰った方がいいのは分かっている。しかし他の四人はそれをサイエの臆病のせいだと批難するし、折角真夜中から家を抜け出して馬を借りてここまで来たのに勿体無いという気持ちもあった。
彼はもう一度押してみようと手に力を込める。―――― だがその時不意に背後から、若い女の声が彼をしかりつけた。
「こら!」
「ひっ」
振り返ると二十歳前後の美しい女が腕組みをして立っている。長い漆黒の髪と白磁の肌、闇色の瞳はファルサスではほとんど見られない色合いだ。
女は不機嫌そうな顔で五人を睨みつける。
「何しに来たんです」
その問いに、思わず女に見惚れていたサイエは我に返った。
「急にどこから現れたんだよ……」
「どこでもいいじゃないですか。魔女に何の用ですか」
「それは……」
突然現れた女と会話を交わし始めたサイエに、他の四人は唖然としていた気を取り直した。負けじと口々に言いつけ始める。
「サイエが、北では雨の代わりに氷が降るとか言うから」
「嘘ばっかりだよな。そんなわけないっての」
「だから魔女に聞いてみろよって」
少年たちの言葉にティナーシャは首を傾げた。
「氷……雪?」
サイエが目を輝かせる。
「そう、それ! お姉さん知ってる?」
「そりゃ知ってますがね」
内陸部にあり、一年中温暖なファルサスでは勿論雪は降らない。周りに高い山もないので、城都に住んでいる者は見たこともないだろう。一生海を見ない人間もいるくらいである。雪の存在が子供に知られていないとしても無理はない。
サイエはティナーシャの言葉に喜色を浮かべた。友人たちに向き直ると誇らしげに胸を張る。
「ほら、言っただろう! 親父たちだってそういうものがあるらしいって言ってたじゃないか。いい加減信じろよ」
「大人が言うからって本当かどうかは分からないだろ!」
膠着しそうな口喧嘩にティナーシャは激しい疲労を感じた。改めて深い溜息をつく。
「まさかとは思いますが……そんな理由でここに来たんですか」
「そう」
声を合わせて答える子供たちに頭が痛くなる。魔女は腰に両手を当て小さく息を吸うと、ぴしゃりと叱り付けた。
「子供だけでこんなところに来て! 魔女に殺されたらどうするんだ! 大体途中で魔物や盗賊に会ったらどうする! 身の程知らずも大概にしなさい!」
彼女の声に四人は揃って首をすくめる。しかしサイエだけは引かなかった。
「危ないのは分かってる。でも譲れない時だってあるだろ! 陛下だって王子だった頃あちこち冒険にいって強くなったって知ってるぞ!」
「結局あの男の影響か!」
―――― まったくもって男や少年の冒険心というものは理解できない。
それにいくらオスカーでもこんな年で剣も持たず魔女の塔に来ることはしないだろう。
頭を抱えながら、ティナーシャは上体を屈めてサイエに目の高さを合わせた。
「いいですか。陛下も別に冒険に出て強くなったわけじゃないんです。それ以前にずっと努力をしてたから強くなったんですよ。強さに必要なのは無謀じゃありません。まず判断力です。分かったら今日は送ってあげるから帰りなさい」
女の説教にサイエは神妙な顔をして黙り込んだ。
言われたことの正当性は分かっている。それでも彼の誇りが笑われることを許さなかった。だから苦労してここまで来たのだ。
意志の強さをその目に煌かせる少年に、ティナーシャは苦笑して彼女の恋人を思い出す。
いつもティナーシャは恋人に無謀だと小言を言うが、実際彼の判断はある意味では正しいのだ。―――― つまり、部下と比べて彼の方がはるかに物事を上手く切り抜けられるという点において。
無駄な犠牲を出したくないという彼の気持ちも分からないではないが、それだったらせめて守護者である自分には秘密にするなと言いたい。結局彼も冒険が好きなのだろう。
ティナーシャの困ったような顔を見て、サイエはしばらく躊躇っていたが、渋々頷いた。元より帰りについては困っていたのだ。冷静になれば彼女の申し出はありがたかった。
ティナーシャはにっこり笑うとサイエの頭を撫でる。しかし少年はむっとしてそれを振り払った。
「子供扱いするなよ!」
「私もこの年になってよく撫でられますけどね」
軽く肩をすくめて、ティナーシャは頭を撫でる代わりにサイエの額に口付けた。少年は一瞬唖然としたが、すぐに真っ赤になる。
しかし彼女はそれを気にせず、残りの四人に馬を取ってくるように命じた。サイエと彼女のやりとりを呆然と見ていた子供たちは、慌てて木に繋いであった馬を連れてくる。
全員とその馬が揃うとティナーシャは無詠唱でその場に転移門を開いた。彼女の指示を受けて、子供たちが恐る恐る門に入っていく。
最後に残ったサイエはティナーシャを振り返った。その美しい姿をまじまじと眺める。
「ひょっとして……お姉さんが魔女?」
「……さぁ?」
ティナーシャは軽く目を瞠ると、人の悪い笑顔を浮かべた。
※ ※ ※ ※
魔女は翌日から神殿とそこまでの道中を視察すると、クムと打ち合わせをしてそれら全てに構成を張り巡らせた。丸一日かかって張られた彼女の構成を見て、他の魔法士たちは絶句する。ドアンなどはカーヴにこっそり耳打ちまでした。
「ティナーシャ様って精霊術士……だったはずだよな」
「常識で考えると損」
彼女の組んだ構成には大きく二つの効果がある。
一つはその範囲内ではあらかじめ構成によって許可された魔法士たち以外は構成を組むことができないというものだ。勿論外で構成した魔法もその範囲内に持ち込まれた瞬間無意味化される。構成を張るのは大変だが、前もって用意しておく防御魔法としては最上位のものである。
そしてもう一つの効果は、構成の範囲内の状況全てを術者が知覚できるようにするというものだ。監視用の魔法だが、これほど広範囲にわたって張られることはまずない。
感嘆する魔法士たちに魔女は苦笑した。
「知覚構成の方は、どちらかというと張るのはそうでもないんですが当日が大変ですね。でもまぁ自動で怪しい人間を割り出そうとするとどうしても穴が残りますから……自分で注意するのが一番です」
当日、構成範囲内の出来事は全て魔女に認識され、確かにその負荷は尋常ではない。
だがティナーシャは確実さを求めてこの魔法を選んだ。それほど先日の毒針の件は堪えたのだ。オスカーが毒針に刺されたと分かった時、そして慌ててその体内時間を留めた時の血の凍るような思いは忘れることが出来ない。あのような刺客を城に送り込ませた人間も、分かり次第相応の報いをくれてやるつもりだった。
クムとティナーシャから敷かれた構成について報告を受けたオスカーは、承認を出した後心配そうに魔女を見やった。
「お前、そんな監視の仕方をして大丈夫か?」
「初めてじゃありませんし、大丈夫です。その代わり自分の身の回りは少し手薄になりますが」
「俺の近くに居ろ。確実だし一石二鳥だ」
「分かりました」
ティナーシャは微苦笑して頷くと壁際に下がる。本当は目立つような場所は避けて上空にでもいようかと思ったのだが、彼の言うことの方が一理あった。
退出したクムの代わりにラザルが書類を持って入ってくる。それらの書類を処理しながら、オスカーはふと先日のことを思い出した。
「そういえば塔に来てた子供は何の用だったんだ?」
「あー、あれはですね……」
ティナーシャは簡単に事のあらましを説明してやった。仕事をしつつ聞いていたオスカーは、聞き終わると眉を顰める。
「十歳にもなって雪の存在を疑ってるのか。教育制度を改めないと駄目か」
話の規模が大きくなっていることに魔女は笑い出した。
ファルサスはある一定の年齢までは、希望すれば誰もが教育を受けることが出来る。だがそれでも家の手伝いなどに忙しく、教育を受けていない子供がいるのもまた事実だ。
いっそ強制にしてやろうか、と考え始めたオスカーに、ティナーシャはあどけなく笑う。
「何でも疑う姿勢はいいじゃないですか。そればっかりじゃ先に進みませんが。……貴方は雪を見たことありますか?」
「タァイーリの遠征の時に遠目でならあるな」
タァイーリは大陸でも北部の国であり、高い山も多い。山の頂上付近には一年中雪が積もっているのを見ることが出来るのだ。
魔女は苦笑して納得するとお茶の支度を始めた。その小さな背中をオスカーは眺める。
「で、お前は何で結婚したくないんだ?」
不意打ちの質問に、ティナーシャは危うくカップを取り落としそうになった。かろうじて持ち直すとほっと息をつく。
「なんですか急に……」
「聞きたいから。俺が原因か?」
魔女は眉根を寄せていたが、やがて大きな溜息をつくと男に振り返った。
「前に貴方に魔力があるって言ったこと覚えてますか?」
「ああ」
「貴方の魔力は多分子供の頃、かなり強力に封印されたんだと思います。だから普通の魔法士はそのことに気づきませんが……貴方の魔力って実は凄いんですよ。ちゃんと魔法士として訓練していれば、かなりの術者になったはずです」
オスカーは唖然とした。魔力があるとは聞いていたが、封印などは初耳である。自分に魔力があることを知ったのもつい最近なのだ。それがどれほどのものかなどと考えたこともなかった。
ティナーシャはあまり口にしたい話題ではなかったらしく苦い顔をしている。
「魔力の発現は血筋に寄らないと言われていますが、それは魔力がない親からも魔法士が生れるという意味で、貴方の子を私が生む場合、まず間違いなくかなり強力な魔法士が生まれるんです。普通魔女ほどの力がある赤子が身篭られることはありませんし、あったとしても死産してしまうでしょうが、私が生む場合は別です。多分子供が女だった場合、その子は生まれながらに魔女と言っていいでしょうね」
だから生みたくないのだ、とティナーシャは言外に続けた。
それはオスカーにとって、考えたこともない可能性だった。自分の魔力も把握していなかったのだから無理もない。
生まれる自分の子は魔女になる。
その事実を突きつけられ、さすがにすぐには何も言えなかった。
オスカーはティナーシャの闇色の目を見て、次に自分の手の平に視線を落とす。驚きをようやく飲み込むと疑問を口にした。
「男だったらどうなるんだ?」
「やはりかなりの魔力は継ぐとは思いますが、アカーシアがありますからね。あれを持つ限り魔力は集中できません。貴方が早くからアカーシアを継いだのも同じ理由があったんじゃないでしょうか」
「親父は俺の魔力のことを知っていたということか」
「クムに探りを入れてみたことがあるんですが、彼は貴方の魔力のことを知らなかったようです。或いは貴方の母上かその周囲の方が封印をほどこしたのかもしれません。本当はもっと早くに言うべきだったのかもしれませんが、昔は呪いのせいで伴侶を選んでられない状況でしたし、そこまで貴方の事情に私が首を突っ込むのも躊躇われたので……」
「そうか……」
オスカーは、今は亡き母に思いを馳せた。
彼が五歳の時に病気で亡くなったという彼女について、オスカーはほとんど記憶がない。五歳ともなればもっと記憶が残っていていいはずなのだが、よく思い出せないのだ。ましてや彼女が魔法士だったかどうかなど分かるはずもなかった。これは一度父に聞いてみた方がいいかもしれない。
オスカーは自分と過去のことについて嘆息すると、それはそれとして魔女に向き直った。美しい恋人の姿を見つめる。
「生まれながら強大な力を持つことは不幸だと思うか?」
「いいことだとは思えません。それに王族になるんですよ」
「俺にだって力があるんだろう? それにお前も元は女王になるための女だ」
彼は手招きした。それに応じて歩み寄ったティナーシャは彼の膝の上に座る。オスカーはその体を軽く後ろから抱きしめながら囁いた。
「最初から力の存在を否定するな。お前の力にどれだけの人間が助けられてると思ってるんだ」
「人を殺したことも山ほどあります」
魔女は目を伏せた。小さな頭が少し項垂れるのを、オスカーは優しく撫でる。
「俺だってある。戦うことを選んだからな。―――― ティナーシャ、力は使いようだ。お前にしか生めない子供なら、お前には育てられる力があるということだろう。一つずつ教えて、考えさせればいい。力のことも命のこともな。最初から可能性を奪うな。子供に生まれる機会をくれてやってくれ」
ティナーシャは何も答えなかった。
飲み込みきれない思いを抱えて、彼女は目を閉じた。
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