第32話 顧みられない棘 02


 それは夜の中鮮やかに燃え盛る。

 純粋な憎しみで出来た滴は、気紛れな悪意によって垂らされる。

 殺すことを望む魂は―――― 死ぬこともまた望んでいた。




 ※ ※ ※ ※




 秘された白い肌は触れた端から溶け入るような滑らかさを持っていた。

 魔女の隠された躰に指を這わせていたオスカーは、けれど部屋の外が慌しくなる気配に気づいて顔をあげる。まもなく部屋の扉が乱暴に叩かれた。

「何だ……?」

 不躾な音を聞き、魔女の目に一瞬で理性が戻るのを見て、彼は舌打したくなった。咄嗟に細い腕をつかもうとするが、彼女は猫のように素早く男の下から抜け出すと、ふっと部屋から消えてしまう。

 あまりの間の悪さに、オスカーは罵り言葉を呟きながら扉へ向かった。開けると外にはラザルが立っている。

「お前、俺に殺されても文句言えんぞ」

「な、何がですか……いえ、陛下大変なんですよ!  魔物が城に……火が放たれています!」

「はぁ!?」

 咄嗟に理解しかねたオスカーは、不機嫌きわまる声をあげた。



 ファルサス城に魔物が来襲したという記録は、公式には一度もない。

 人々の常識を覆すありえない事態である突然の襲撃に、城内は騒然となった。夜空を仰げば、人ほどの大きさの魔物が翼をはためかせ、城の周りを飛び回っている。真っ黒い肌に細い人間のような体、蝙蝠の翼を生やしたその魔物たちはかなりの数いるようで、時に窓を突き破り人間に鋭い爪を伸ばしてきた。

 回廊にいた女官の一人が、目の前で兵士が引き裂かれるのを見て狂乱し庭へと逃げ出す。その彼女に上空から狙いを定めて別の魔物が急降下してきた。鈍く光る爪が女官を貫く寸前、間に駆け込んで魔物を両断したアルスは、大声を上げて部下たちに指示を出す。

「三人以上で固まれ! 死角を作るな! 戦えない者は外に出るな!」

 暗かったはずの空はいつのまにか真っ赤に染まっていた。どうやら城の裏手に火が放たれているらしい。魔物と戦いながら消火をするのは至難の技だが、消火作業となれば魔法士たちが向かっているはずである。

 アルスがそう考えながら辺りを見回した時、城門近くで女の悲鳴が上がった。彼が振り向くと、厚布で頭を庇いながら蹲る女官を守って、門番の兵士が剣を振るっている。

 アルスは咄嗟に短剣を抜いた。門番に襲い掛かる魔物の頭を狙って、それを迷い無く投擲する。



 書類を収めた保管庫の整理に夜までかかっていたノーマンは、ふと外が妙にうるさいことに気が付いた。怪訝に思いながらランプを手に保管庫の扉を開ける。

 空が赤い。

 炎によって照らし出される上空に、魔物の影がいくつも舞っているのが見えた。

「なんだ!?」

 反射的に上げてしまった大声が聞こえたのか、低い位置を飛んでいた魔物が向きを変え、ノーマンの方へと向かってきた。思わず彼は凍りつく。

 ―――― 中に入って扉を閉めなければ。

 頭はそう命令しているのだが、足が動かない。硬直している彼の目前に白く光る爪が迫った。

 避けられぬ死を覚悟した一瞬。

 だが魔物は、何の前触れも無く四散する。黒い塵となって消えるそれを、ノーマンは呆然と見つめた。

「中へ。出てきてはいけない」

 凛とした声に彼が顔を上げると空中には王の魔女が浮いていた。闇色の目が男を見つめる。

 強い意志と、そして揺るがぬ威。ノーマンはその時初めて、彼女が女王であることを理解した。黙って頷いた彼は保管庫に戻り、ただ城の無事を神に祈る。



 魔女は城の上空に浮かび上がると、両手のひらに一つずつ強い光を生んだ。

 それに気づいて魔物たちが数匹、奇声を上げながら向かってくる。彼女は軽く目を細めると、何の詠唱もなくそれらを打ち出した。二つの光は空中で分散し、向かってくる魔物を次々消し去る。

「セン! カル! ミラ! ニル! クナイ! 来い!」

 女王の命に応えて五人の精霊が空中に出現する。ティナーシャは手短に命令した。

「魔物どもを殺せ。例外は無しだ。行け」

 精霊たちは口々に短い返事をするとその場から消えた。魔女は続いて詠唱を開始する。

「我が意志を命と認識せよ。地に眠り空を翔る転換者よ。我は汝の水を支配し召喚す。我が命が現出の概念の全てと理解せよ」

 白い右手に空気中の水分が凝っていく。彼女は左手を添えると更に構成をいじった。水分はまたたくまに無数の水滴となる。ティナーシャは霧雨に似たそれらを、火が燃え盛る城の裏手の納屋に向かって放った。



 消火にあたっていたドアンは時折襲ってくる魔物を魔法で焼きながら、一向に消える気配のない火に焦りを禁じえなかった。おそらくは魔法でつけられたものなのだろう。炎は舌のようにその先端をくねらせながら、異様な燃え上がり方をしている。

 ―――― このままでは城自体にもやがて燃え移ってしまうかもしれない。

 彼が全員で構成をより合わせて巨大な魔法を作るべきか逡巡した時、しかし上空から無数の水滴が降り注いできた。水滴は消火をするとともにそのまま結界を張って炎を封じ込める。薄い膜状の結界内で赤い火がゆらゆらと揺れた。

「これは……ティナーシャ様か。助かった」

 とりあえず魔女の結界があるなら燃え広がる心配はない。

 安堵の息をつくと、ドアンは再度消火の為の構成を組み始めた。



 グランフォートと共に中庭に出たオスカーは、城門に向かって外を歩きつつ、襲ってくる魔物を斬り捨てていた。城内の避難はラザルに指示を出してある。今は彼がすべきは魔物の掃討であろう。羽虫のように寄ってくる魔物を殺しながら、その数が二十体を越えた頃、城門がようやく見えてきた。その前の広場でアルスたちが奮闘しているのが見える。

 彼はオスカーに気づいて叫んだ。

「陛下! ご無事で」

「何なんだこれは……」

 ぼやきながら彼は、空から襲ってくる魔物に向かってアカーシアを突き出す。王の首を刈ろうと急降下してきていた魔物は、その勢いのまま避けることも出来ず、喉を串刺しにされた。

 しかし有翼の魔物は、絶命しながらもアカーシアをがっしり掴んだまま地面に落下する。オスカーがその体を足で押さえてわずらわしげに剣を引き抜こうとした時、僅かな隙を狙ってもう一体が上空から襲い掛かった。

「おっと」

 王は鋭い爪を右に避けると左手ですれ違う魔物の足を掴む。一見軽々と、しかし恐るべき膂力を以って、地面に魔物を投げつけた。固い地に叩きつけられ呻き声を上げた魔物の首を、オスカーは引き抜いたアカーシアで刎ねる。

 そうしている間に、アルスが駆け寄ってきた。

「陛下」

「平気だ」

 オスカーが空を見上げると、魔物の数は初めと比べ大分少なくなっていた。どうやら上空で何かと戦っているようだ。有翼の魔物はみるみるその数を減じていく。

 王の隣でグランフォートが目を凝らした。彼の注視する先の上空で、見知らぬ赤い髪の少女が楽しそうに魔法を放っている。

「何でしょう空にいるのは」

「あれは……ティナーシャの精霊だな」

 初めて見る伝説の精霊にグランフォートは息を呑んだ。

「あいつが精霊まで出してるってことは時間の問題だな。アルス、負傷者を頼む」

「かしこまりました」

 オスカーは地上に向かってくる魔物がいないことを確認して、一旦アカーシアを鞘に戻した。辺りを見回すと魔物の死体がごろごろ転がっている。一通りの攻勢がやんだとみて、魔法士たちが城から走り出た。彼らは次々怪我人の手当てにあたる。


 オスカーは何人かの武官を呼び寄せ、現状の確認と報告を命じた。王の命を受けた彼らが散っていくのとすれ違いで、上空に魔女が現れる。ティナーシャはゆっくりと彼の傍に下りてきた。

「ティナーシャ、どうだ?」

「消火は完了したようです。召喚者を追ってたんですが見事にまかれました。すみません」

「お前が逃がすなんて相当な手練だな」

 オスカーが苦笑すると、魔女は申し訳なさそうに頭を垂れた。

「ともかく事後処理だ。悪いが手伝ってくれ」

「はい」

 魔女は地面に下りると重傷者に向かって駆け出す。その後姿を見てオスカーは息をついた。

 城門近くで怪我をした兵士が、他の兵士たちに抱え上げられる。彼には厚い布で頭を覆った女官が心配そうに付き添っていた。城内へと退避する彼らが王のすぐ傍を通った時、付き添っていた女官が軽くよろめく。オスカーは手を伸ばしてその背を支えた。

 女官の被っていた布が地に落ちる。

 彼女の瞳がオスカーを射抜いた。

 見覚えのある顔。―――― それは、ここにいるはずのない人間のものだ。

「お前……」

 瞬間、オスカーは呆然とした。女を支えた手に軽い痛みが走る。

 思わず手を放した瞬間、それは激痛に変じた。

 女は高らかに歓喜の声をあげて笑う。

 響き渡る異様な笑声に、アルスとティナーシャが振り返った。

「クラーラ!?」

 狂った女の目が、嘲りの笑みを湛えて魔女を捉える。

 その隣りで崩れ落ちる男を見て、ティナーシャは悲鳴をあげた。




 ※ ※ ※ ※




 襲撃の異様さと規模からすると被害はかなり軽微で済んだ。怪我人は多いが死者は十人足らずで、焼失したのも納屋だけに留まっている。他国の城ではこうはいかなかったに違いない。

 しかし本当の被害はそれだけではなかった。

 報告を受けたケヴィンは慌しく息子の部屋に駆け込んでくる。そこには夜の出来事であったため、わずかな重臣の他に、鎮圧にあたっていた武官と魔法士たち数人が揃っているのみだった。

 部屋の主は寝台に横たわり動かない。枕元には守護者たる魔女が床に両膝をついて座っていた。男の手をとり、その甲を自分の額にあてながら目を閉じている魔女は、まるで人形のように生気がなく微動だにしない。そしてそれは寝台の上の男も同じだった。

 ケヴィンは恐る恐る二人の傍に歩み寄ると息子の顔を覗き込む。血の気がないその体は、本来見えるべき生命の鼓動が感じられなかった。

「これは一体……」

 ケヴィンの声に魔女が顔をあげる。闇色の瞳には空虚な光が湛えられていた。

「体の時間をほぼ止めてあります。他に施しようがなかったので……」

「生きている?」

「生きてはいますが、毒薬が盛られています。時間を動かせば数分で死に至ります」

 あまりのことに愕然とするケヴィンに、アルスが補足した。先だっての事件で国外追放にしたはずの女が何者かの手を借りて城内に侵入していたことと、その女が針を使って結界の隙間を抜け、オスカーに毒を盛ったことを。

「その女は?」

「拘置してあります。しかしもう気が触れていて……」

「そうか」

 ケヴィンは魔女に向き直った。

「解毒できますか?」

 魔女は泣き出しそうな顔で前王を見返した。彼女のそんな顔を見るのは皆が初めてで、改めて彼らは事態の深刻さを認識する。

「この毒……毒針を取り上げて調べたんですが、アルカキアという有名な自然の猛毒で、魔法で作ったものではないんです。純粋な……人を殺す為の、ただの毒です」

 ケヴィンはその言葉の意味を理解して絶句した。魔法で作られたものではないということは魔法で解けないということだ。それはこの状況では絶望と同義である。

「ではずっと眠ったまま?」

「そんなには持ちません。時間を止めてあると言っても完全ではないですし。いずれは毒が回るでしょう」

 美しい魔女は唇を噛んだ。紅い唇に血が滲む。

 ケヴィンは何も言えなかった。ただ息子の白い顔を見る。

「ロザリア……」

 男の口から、今は亡き妻の名前が零れた。



 ティナーシャは再び目を閉じた。男の手を強く握り締める。

 あれほど近かったこの手が、今はひどく遠い気がする。考えるべきことは沢山あったはずなのに、上手くまとまらない。思い出せない。

 ―――― だからせめて、進むべき道が欲しかった。

 彼女は顔を上げる。部屋の中央にひずみが生まれた。魔法の転移に伴う歪みは、無音のまま夜の室内に弾け飛ぶ。

 次の瞬間、そこには閉ざされた森の魔女が立っていた。不機嫌そうな第一声が部屋に響く。

「センを呼びによこすなんて、悪趣味極まりないわ!」

「すみません」

 謝る友人の声に異様な空気を感じたのか、ルクレツィアは部屋の中を見回した。沈痛な雰囲気が満ちる一同の顔を眺め、最後に友人と、寝台に眠る男を視界にいれる。ルクレツィアは二人の傍に歩み寄ると、男の顔を覗き込んだ。

「何これ……時間を止めてあるの?」

「ええ」

 ルクレツィアはまじまじと王の顔を眺め、次いでティナーシャが取っている男の左手を見た。彼の手のひらは不気味に爛れている。魔女は顔を顰めた。

「アルカキア?」

「はい」

 肯定を聞いて、ルクレツィアの顔がみるみる歪む。彼女は座り込んでいる友人に向かって吐き捨てた。

「これ無理じゃない。時間なんか止めて。何してるの」

 魔法薬にかけては卓越した技術を誇る魔女の言葉。その残酷な結論に、一同の間には衝撃が走った。彼らは逃れられない死の眼前にある王を見つめる。

 しかしティナーシャは、感情のない声でそれに返した。

「無理にしないでください。何とかしますよ」

 ルクレツィアは苛立たしげに友人を睨む。

「どういう手段があるってのよ」

「血清を作ります」

 その返答に、一瞬ルクレツィアでさえも意表をつかれた。


 ―――― アルカキアに血清は存在しない。

 それは何百年もの間、手の施しようのない猛毒として、歴史の影に暗い姿を蠢かせていただけなのだ。


 閉ざされた森の魔女は眉を顰める。

「はぁ? 即死ものの毒よ? どうやって作るのよ」

「私の体で作ります。私の体の中は時間の流れが停滞していますし、魔力も多いです。この毒でも丸一日くらいならもつと思います。その間に魔法を使って抗体を作ります」

 王の守護者の言葉に部屋の中の全員が驚き、それぞれの表情で魔女たちを見つめた。僅かに見えた希望にすがろうとする空気が生れる。

 しかしルクレツィアは驚愕に目を見開いた。美しい貌が怒りの色で染まっていく。彼女は大きく息を吸い込むと、部屋の外まで響く声でティナーシャを叱り付けた。

「馬鹿言うんじゃないわよ!!  魔法薬じゃないのよ!? 出来てもあんたが死ぬわよ! 大体激痛で魔法なんて使えるわけない!  痛みを消したら体内の感覚も鈍るし……」

 ルクレツィアの怒声が部屋の空気を鋭く薙ぐ。 魔女の怒りにティナーシャを除く全員が硬直した。彼らはその発言を反芻し、意味を理解する。王の魔女が渡ろうとしている橋の危うさに皆が蒼ざめた。

 しかし、言われた当の本人は何も堪えてないようである。

「……だから貴女にも頼んでるんじゃないですか。あと私、痛みには強いんです」

 淡々と答えると、ティナーシャは顔をあげた。深淵を閉じ込めた目には強い光が浮かんでいる。ルクレツィアはそれを見て怯んだ。

「嫌よ」

「お願いします……」

「嫌よ! 何よあんた、馬鹿じゃないの。狂ってる! やめなさいよ、他の男にしなさい」

「お願いします」

 譲る気のないティナーシャに、ルクレツィアは再び苛立ちを顕にした。友人の肩を爪を立てて掴む。琥珀色の目が燃えるような怒気を帯びてティナーシャを睨んだ。周囲の人間が固唾を呑む。

 ルクレツィアは口を開くと、静かに問うた。

「……あんたが命を懸ける価値がこの男にあるっていうの?」

「あります」

 ティナーシャは即答すると、少し困ったような笑顔を見せた。



 ルクレツィアは長い長い溜息をつくと顔をあげた。部屋の中の人間をもう一度見回す。彼女は中からシルヴィアとパミラを指差した。

「あなたたち手伝って」

 指名された二人は慌てて頷くとルクレツィアの元に駆け寄った。レナートとカーヴが手を上げる。

「俺もお願いします」

「手伝います」

「男は駄目」

 あっさりと却下されて二人は目を丸くした。ティナーシャが苦笑する。

「大丈夫です。信じててください」

 王の魔女は寝台を振り返ると眠ったままの男の頬に触れた。愛しげにその顔を見つめると、額にそっと口付ける。顔を上げたティナーシャが横を見ると、先程彼女のあげた水晶が今は開かない彼の目と同じ色に輝いていた。




 ※ ※ ※ ※




 自室に戻ったティナーシャは服を脱いで全裸になった。そのまま部屋の中央に椅子を置き、腰掛ける。ルクレツィアが周囲の床に魔法の場を作る為の紋様を張った。シルヴィアとパミラがその両脇に立つ。

 紋様を張り終わったルクレツィアは、アルカキアの針が入った瓶を手にティナーシャの前に立った。彼女の白い体を見て眉を寄せる。

「これ何よ」

 首筋にある赤い痣を指して、ルクレツィアは斜めに尋ねた。

「へ?」

 そう言われても本人には死角で見えない。怪訝に思って首を左右に傾げるだけだ。

 ルクレツィアは呆れた目で友人を見やる。

「まぁいいけどね……」

「はぁ……」

 ティナーシャは短く詠唱した。苦痛の中にあっても動かないように、自分の体を椅子に固定する。それが終わると彼女はルクレツィアを見上げた。

「私が死んだら処術はお願いします」

「分かった」

「ついでにあの人から私の記憶を消してください」

「お断りよ。あんたが死んだらあの男には一生背負ってもらうからね」

 冷ややかな言葉にティナーシャは苦笑した。長い睫毛を伏せ、思いを馳せる。


 何故まだ生きているのだろうと思った。

 何故死なないのかと。

 でも死に場所を探しているわけではない。死ぬ理由を彼に求めない。

 だから大丈夫だ。

 決して死なない。


 ティナーシャは深く息を吐き出した。

 音がなくなる錯覚。意識が研ぎ澄まされていく。

 ラナクと相対した時も、そうだったのだ。

 自分はきっとこういう場に強い。

 もう迷わない。

 迷わぬ自信があった。

「お願いします」

 ティナーシャは微笑むと、澄んだ声で告げた。




 ※ ※ ※ ※




 手を伸ばしてもすぐには届かない。

 だから距離を半分縮める。

 その次はもう半分。

 ゆっくりと、しかし強く焦がれながら、徐々に近づく。決して無くならない距離を、できるだけ無に近づけていく。

 求めても求めても決して交わらない距離を悲しみながら―――― 人はそれを、恋と呼ぶのかもしれない。




 ※ ※ ※ ※




 目が覚めた時、自室には妙に多くの人間がいて、彼を見つめていた。

 オスカーはそれを訝しく思いながら額を押さえる。体を起こそうとすると、左手が僅かに痛んだ。だが怪訝に思って掌を見ても何の傷も痕もない。

 ラザルが駆け寄ってきて彼の体を支えた。

「陛下、ご無理をなさらないでください」

「何だ一体。どうしたんだ」

「ご病気で寝込まれていたのですよ。皆心配しました」

 そう言われて彼は部屋を見回す。ラザルの言葉を裏付けるように知った顔が何人も彼を心配そうに見ていた。一番入り口近くにいたシルヴィアが、泣きはらしたような真っ赤な目をしているのに気づいてオスカーは眉根を寄せる。

「そんなに酷かったのか? 記憶がないんだが……」

 言いながら彼は全員の顔を確認する。

 ―――― 何だか、一番近くにいるべき人間がいないような気がした。しかしそれが誰だか分からない。

「どうも頭がはっきりしないな」

「お目覚めになったばかりですから」

 今まで鮮明に見ていたはずの夢を思い出せないようなもどかしさが、意識の中に燻っている。オスカーは頭を軽く振ったが、零れた記憶を取り戻すことはできそうになかった。ラザルが床に膝をついて彼を覗き込む。

「何か召し上がりますか? それとももう少しお休みになりますか」

「そうだな……仕事があるからな」

「ケヴィン様がなさってます」

「親父が? それは珍しいな」

 一体自分はどんな病気をしたのだろう。寝込む前の記憶がまったく思い出せない。オスカーは何度も首を捻った。

「じゃあもうちょっと寝るか……悪い」

「そうなさってください。皆も退出しますので……何かあったらお呼びください」

「ああ」


 部屋の中で一人になると、オスカーは再び横になった。眠ろうとしながらも、何故かひどく大事なものを失った気がして不安になる。寝返りを打った彼がふと横を見ると、寝台脇のテーブルには水晶球が置かれていた。何に使うものなのか、中が不思議に青く染まっている。

 オスカーはうつ伏せになるとそれを手に取った。目を細めて覗き込むと、水晶球の中には明るい夜空が閉じ込められている。

 澄んだ青色。彼の瞳と同じ色の空だ。

『おみやげですよ』

 不意に、女の美しい声が脳裏に響いた。

 記憶にないはずの声。だがそれに胸が痛む。

 ―――― これは、忘れてはならない声ではなかったか。

 世界にただ一人しかいないはずの女。彼女はおそらく、手を放してはいけない存在だった。

「…………これは」

 いつのまにか生まれている空隙。

 決して失ってはならない人間の、その面影を彼は自分の中に探る。

 思い出せない名をただ意識の底で呼ぶ。


 覆い隠された断片を探し続ける時間。彼が望んでいたものを手にするまで、そう長くはかからなかった。息を止め集中していたオスカーは、ぼんやりと彼女の姿を、次いで名前を取り戻す。

 そうして封じられた記憶を全て手繰り寄せた時―――― けれど彼は事態の異常さを悟って呆然とした。



 部屋を抜け出して魔女の私室があるべき場所に一人立ったオスカーは、その扉に部屋の主のものではない結界が張られている事に気づいた。単なる壁が続いて見えるよう、不可視の魔法が扉にかけられている。

 何故扉を隠すような真似がされているのか。ともすれば悪夢のような想像に傾きがちな思考を振り払って、オスカーは結界に相対した。結界破りに有効なアカーシアは自室に置いてきてしまっている。けれどそれを取りに戻っている時間は惜しかった。

 彼は精密に組まれた構成を見つめる。その要に直接手を伸ばした。

 ―――― 自分にはこれを解く事が出来る。

 そんな不思議な確信が彼の背を押す。オスカーは自らの指で結界を解こうとした。

 しかし彼の指が構成に触れる直前、結界がふっとかき消えた。壁に扉が出現する。オスカーが軽くそれを押して中に入ると、部屋の中では閉ざされた森の魔女が不機嫌そうに腕組みをして彼を睨んでいた。

「こうやってこないよう折角記憶まで弄ったのに、何やってるのよ。しかも結界に触ろうとするなんて。自重しなさい」

「ティナーシャは?」

 ルクレツィアは聞こえよがしに溜息をついた。顎で部屋の奥を示す。

 そこにある寝台に、彼の魔女は微動だにせず横たわっていた。


 オスカーは寝台に向かって歩きながら、自分が緊張していることに気づく。

 聞くのが怖い。見るのが怖い。しかし確かめなければいけない。

 彼は枕元に立つと女の顔を覗き込んだ。普段白い彼女の肌は、今は血の気を感じさせないほど青白い。オスカーは恐る恐る手を伸ばし、その頬に触れる。滑らかな肌はわずかに冷たかった。

「生きているのか?」

「死んでたらこんなところに置いておかないわよ」

 吐き捨てられたルクレツィアの言葉に、男は崩れ落ちそうなほど安堵する。

 閉ざされた森の魔女はなおも不機嫌そうに続けた。

「大体、男が出来たら落ち着くかと思って勧めたのに悪化してるじゃない。何で死の淵彷徨ってるのよ。自分を顧みないにもほどがあるわ。趣味が悪いっての。不愉快よ」

「すまん」

 オスカーはティナーシャから目を離さないまま謝った。

 ―――― 自分の甘さは自分が負うべきものだ。

 だからクラーラを助けた。魔女にその死を背負わせたくなかったのだ。

 だがその甘さは結局は回りまわって魔女を巻き込んだ。非は全て自分自身にある。


 オスカーは艶が少し鈍っている黒髪を梳いた。

 こうして臥している彼女の隣に立ったのは三度目のことである。

 一度目は魔獣との戦いの後。

 二度目は魔法湖を巡る戦争の後。

 いずれの時も眠り続ける彼女に、オスカーは若干の不安を覚えながらその目覚めを待ったのだ。無敗だの最強だの言いながら、いつも自分を後回しにして危ない橋を渡る彼女、己を顧みぬ女を、だから彼は自分で守ってやりたかった。

 しかし今回はこの失態である。

 具体的に何があったのかは分からないが、彼女のこの状態は自分が原因なのだということは、ルクレツィアの態度からも容易に分かった。

 オスカーの胸に悔恨が重苦しく立ち込める。彼は確かめるように彼女の肌に触れた。細く白い首に指を滑らせ―――― だがおかしなことに気づく。

 滑らかな肌が、白い掛布に隠されるすぐ手前から、わずかに茶色く色を変えている。

 オスカーは少し逡巡したが、掛布に手を掛けた。

 背後から制止の声が飛ぶ。

「やめなさいよ」

「気になる」

「そんなの見られたいと思う女がいるわけないわ。やめなさい」

「でもこれは……俺がつけた傷なんだろう?」

 ルクレツィアは答えなかった。それを了承とみなしてオスカーは掛布を引く。

 布の下の彼女の体は、何も纏わぬ裸だった。オスカーは思わず息を呑む。

 目を引いたのは彼女の肢体ではない。その全身を覆う爛れと水脹れである。艶やかな白い肌は見る影も無く変色し、あちこちがざらざらと凝って、皮膚が破けていた。

 まるでひどい火傷を負ったような姿だ。無残な躰を見て彼はさすがに何も言えない。ルクレツィアの苦い声が響いた。

「アルカキアを全身に回したのよ。死ななかった方が不思議だわ。気が狂うような激痛のはずだったのにちゃんと最後まで詠唱してたわよ」

「……治るのか?」

「魔力がもうちょっと安定してきたら治癒をかけるわ。今は駄目。体内で血清を凝縮させた反動で、魔力がぐちゃぐちゃになってるもの」

 魔女の説明に安心しながら、オスカーはそっと爛れた胸元に触れる。


 ざらつく感触が痛々しい。

 だがそれが、喩えようも無く愛しかった。

 胸が熱い。

 泣き出したくなるような熱がそこにある。

 口に出したらルクレツィアに殴られるだろう。趣味が悪い。分かっている。

 けれど彼は、それがずっと欲しかった彼女からの執着の証のような気がして、歯軋りしたくなる後悔と、目のくらむような充足とを同時に感じていたのだ。

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